ゔぁみゅーだとらいあんぐる

雑記帳です。ほんとうにノリと勢いだけで何でも書きます。タイトルは作った翌日に先輩につけてもらいました。

リズと青い鳥の感想と近況報告

連休ですね。お久しぶりでございます。

※今日は気持ち悪いくらい語りますが、誰に見られるかわかったもんじゃないので先に言っておくと、これが普段通りの私です。

 

今回はネタバレがあります。背景色と文字色を一致させたり、空白で埋め尽くしたりするのも、なんだかなーと思うので、頑張って近況報告でつないでみます。

 

投稿しないうちに怒涛かつ劇的な一年ちょっとが過ぎ、教育学と哲学のチベットにいる院生生活に加え、教科外のヒジョウキンとしての2つの中学校での生活が並行して始まってしまいました。

教育学と哲学のチベットという言い方は、いま思いついたのだけど、実家のある地区が一部の人々から”横浜のチベット”と呼ばれている(揶揄されている?)ことに由来します。

 

年度明けってほんとバカみたいに忙しくなるんだなあと。ひと段落して思う次第で、でもまだまだ書類三昧です。毎年こうなのか、というか、おとなって常にこうなのか…()

 

なお、某校の初回授業は半ナマ鳥レバーにあたっておやすみいたしました。どこへ行ってもネタにしているのであれですし、本来は「あーもうこういう危険な食べ物はやめよう」っていうべきなのかもしれないけれど、もう一回食えって言われたら喜んで食べると思う…めっちゃ美味しかった…。。

 

 

その一回ずれ込んでしまった初回授業では、ぼくの自己紹介もしないとなと思ったので、

「わたしの「人柄」を明らかにする」という目的で、いっぱい質問をしてください。

・基本何でも答えますので、いろいろな角度から、なんでも訊いてください。

・マジで答えたくない質問には「答えたくない」と言います。

というコーナーを設けました。

「給料はいくらですか?」と「彼女/母親の本名は?」という質問以外にはかなり真面目に答えたつもりです。相変わらずオタクばれすることへの抵抗は一切ないので、まあバレるわけですが、「公開日にリズと青い鳥を見にいく決心をした」と言ったら、「私はすでに試写会に行って来ました」という声がぼそっとどっかから聞こえて、ちょっとびっくりしたりしたのでした。いまのところそんな感じでのんびり働いています(?)

 

 

しかしやっぱり、哲学に関する教育をほとんど受けてない自分が、哲学とは何か、とか哲学対話とは何か、とかいうことを説明することにはだいぶ限界を感じてもいます。

恩師にも言われたけど、「教壇に立ったときの方が勉強したくなる」んだなぁ。

 

 

(これ、どこまでいけばネタバレ嫌な人がネタバレ部分を読まずに済むんだ!?)

 

  

主題歌、作品とは別にさわやかでいいですよねー。

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さて、本題です。

 

sorryweareclosed.hatenablog.com

これを書いた友人に対して思うことがあり、いろいろと話していたら書きたくなったのでした。ゴルフクラブありがとうございました。)

 

結論から言うと、

①みぞれと希美の関係を描くってのが本筋なんだろうけども、その筋で見るとなんか微妙っていう評価。

②だけど、特にOP部分なんかはそうだけど、学校と学校生活の描き方がとても繊細で、すき。

という感じの感想になりました。

 

 

  • ①について

微妙っていう評価なのは、スローテンポでじっくりゆっくり、こだわってみぞれと希美の関係性の変化を描こうとしたのは伝わるんだけど、端的に目新しさがないと感じたから。良くも悪くも裏切られない。劇場で見たとき周りの知らない人たち(大学生カップルみたいなのが多かったのは意外でした。ぼくと似たような層の人々なんだろうな。)はクライマックスでみんな泣いてたけど、全然泣けない。TV版2期からこの帰結は予想通りだよー。と。それだけです。

だから、希美が悪いとも思ってないし(そういう感想が出てくるのは、この作品がみぞれ視点を中心に描かれていて、そこに乗っかってしか見てないからでしょと言いたくなる)、みぞれの気持ちが重たすぎてキモいとかも思ってないし(あれくらいありふれてるよと言いたくなる)、最初からすれ違っていたことに気づいてなかった二人と周りがおバカじゃんともさして思ってないし(人生そんなことばっかりだよ)、ましてや作品全体に漂う女子女子した関係がキモいとも全然思ってない。目新しくないということ以外に文句なし。問題なし、問題なし!オールクリアです。

 

 

ただでも、意外と同じことを思っている人は少なそうだなーと思う。

 

 

  • ②について

いくつかポイントはあるのですが。

 

まず、ここ数年いろいろな学校に関わって仕事なり研究なりしているからかもしれない、というか、確実にそうなんだけど、学校の描き方に感動した。

京アニのアニメは作品ごと(スタッフごと)に程度の差はあれど、ものすごく物理的な空間の描き方にこだわっていると思うわけです。緻密に緻密に空間を描いた後に、その中で人の動きを描いている感じがする、と。物理的な空間の中で、人々が動いて、いろいろな出来事が起こっているよ、ということが、しみじみ伝わって来る気がする。

 

なんだろうな、わからなきゃこれは実際見て感じてくれという感じ。ほんとすごい。でもね、ここだけだとこの作品特有の凄みとしては語れないんだ。

 

 *

 

じゃあ「学校の描き方」っていうことでなにが一番言いたいかっていうと、そこに関わっている人の人数分のリアリティがそこで同時に起こってぶつかってるってことを上手く描写できているからすごい、ということなわけです。

例えば、多くの人が言及している最初の登校シーン。みぞれが階段に座って、足音に耳をすませて、歩いてくる人が希美かそうじゃないかを、希美で来ることを期待しながら待ってる。希美の足音を聴き分けたみぞれは、それとわかった途端にそわそわしだす(よく覚えてないけど、立ち上がって、歩いて来る希美のところまでいくかどうか迷う描写があったと思う)。挨拶をして合流した希美は、みぞれがそうやって待っていることを知らないし、気にしていない。

ここで描かれているのは、みぞれは音によって人を聴き分けているという、彼女の世界観だと思う。そして、みぞれにとって朝練のある登校日の朝はああやって過ごすことが日常である一方、希美には希美の日常があって、みぞれと同じようには過ごしていない、ということも同時に描かれている。

これだけだと、何だお前も百合オタクじゃないかと言われそうなので(実際そうかもしれないけど)、もう一個例を挙げます。

高坂麗奈が、忽然と「先輩、希美先輩と相性悪くないですか」とツッコミを入れるシーン。(私が愛して止まない)デカリボン先輩が「あんた頭おかしいんじゃないの」みたいなツッコミを麗奈に対して入れてたのも笑いそうになっちゃったんだけど、でもこのシーンはすごい重要だと思うのね。TV版1期・2期では、吹奏楽部で”ジャンプ的に”「うまくなりたい」「上手くなって特別になりたい」「全国に出て金賞取りたい(そしてそのためならおよそどんな手段も厭わない)」という気持ちでいる黄前久美子高坂麗奈を軸にストーリーが展開していきました。そこでは、2期前半でみぞれと希美の関係が問題になる回があり、久美子やデカリボン先輩が(あくまで)コンクールで勝つために、この部の中の問題として、二人の関係に介入していくその様子が描かれていたと思う、と。その一年度後を描いたのがこの作品だったわけだけれども、今回はみぞれ視点であるからして、みぞれと希美の関係の見え方も扱い方も当然違って来るわけで、ストーリー自体はそこを軸に進むのだが、しかしやっぱり一年前と同じ視点で二人を見ている人はいるぞ、ということが、高坂麗奈のツッコミで示されている、と思うのです。

新キャラ梨々花も、みぞれと同パートの後輩たちも、それぞれに違う仕方で部活動に参加して、やはりみぞれの動向を心配している。

このそれぞれ見え方(リアリティと呼んだり、世界観と呼んだりしてるけども)の違いが、明確にわかるように描かれているから、この作品はすごい、と言いたい。そしてこの違いは、TV版あってこそ際立つものだと思う。作品が進んで行くテンポの違いや、みぞれと希美のストーリーコンクールとはほぼ無関係に進んでいくことだとか、TV版を念頭に置きながら対比してこの作品を見ることで、各キャラのリアリティの違いが見えて来るんであって、だからこの物語がユーフォニアムである必要性」はとても感じる、と言いたいのだ。

 

 

したがって、①ストーリー自体は微妙だけど、②描き方はすごくすき、というのが私の感想なのでした。

ぜんぜん語りつくせてないけど、また思い出したら書こう。

こっちも感想書かないとなあ。よっぽどこっちの方が哲学っぽいよん。

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一昨日と昨日

サークルの同期と卒業旅行をして、帰ってきて、勉強して、ゼミの出張に行って、帰ってきて、勉強して、そしたらその日は来た。前日、午後から始まる研究会に向かう途中、「そうか、明日は卒業式なんだあ」と思った。

 

本学の卒業式は学部ごとに二日間、異なる時間帯に行われる。一日目の最初に自分の卒業式があって、そのあとは書類を受け取って、およそ三人くらいしかいないと思われる学科の友人や、いろいろなサークルの同期と落ち合って話したり、写真を撮ったり、食事したりした。二日目も図書館で勉強しながら、呼ばれたら落ち合って写真を撮ったり、昼飯食いがてら部室で同期と話したり、また図書館へ戻って勉強したり、そんな感じだ。正直、自分の卒業式という感じは受けなかった。

 

…と書くのだけど、ゼミとかサークルなんかには「追い出しコンパ」や「送別会」みたいなものがあるから、実は卒業式が別れになる人は少ない。そもそも、たぶん卒業式の日にわざわざ会って…なんて人は普段から会っている人たちである。

 

「自分の卒業式感」のなさは同じ大学にまたすぐ入学するからである。二週間経たないうちにまた入学式だ(たぶん会場は違うけど)。同じ場所に通い、同じ図書館を利用し、同じ教室で勉強して、同じ部室で休憩するのだろう。それなのに「学部は卒業ですよ」なんて言われても…という感じである。学部変わるったってもう変わってたようなもんだし?

 

**

 

夥しい数の袴姿の人、スーツ姿の人が正門に並んでいる。11号館の前でよくわかんないけどグッズを売っている。知り合いが何だか知らんが胴上げされている?
みんなにとっては間違いなく何がしかの大きな意味のある儀式なんだなあ。…考えてみれば当然である。多くの人にとっては、この日が小学校からの16年間かそれ以上の学校教育の期間を終えて社会に出るタイミングを意味するからだ。

 

卒業式の模様は8号館の「保護者向け会場」で中継されていたようだった。メディアイベントと化した卒業式。門出だよ。めでたい日だよ。ほらほらハレルヤだよ。はい次、校歌歌って。

 

将来にわたってかどうかはともかく、少なくともこの一週間は、いや、ちょっと自信がないのでその瞬間は、周りの人がぼくと撮りたがる写真にも、他のときに一緒に撮った写真とは別の意味があるのだろう。そんなことを思いながら写真を撮ったり、撮られたり。「葬式鉄しなきゃ」とか言いながら突然部室棟の遠くから望遠で部室内をすっぱ抜こうとする友人に付き合ったり…。

集合的記憶となるだろう卒業式。いろんなバカやったね。楽しかったね。さみしくなるね。

 

圧倒的にわたしの周りから知り合いがいなくなるということ、あなたに会って話すのが日常ではなくなること、あなたにもわたしにも別々の次の日常が待っているだろうこと。考えてみれば、常にあたりまえのことであるはずなんだけどこういうときにしか考えないよね。そして、面倒な儀式にも行ってみるとこういうことが隠れていて、うわあってなる。

時間の不可逆性と一回性を突きつけられるぼく。あの人は次どこへ行くのかなあ、もう会わなくなるのかなあ…もっと話しておけばよかったなあ。

「電車の顔」

あー久しぶりに何もしない日だった。いや、TOTEVEとWHUCHEの2試合丸々見て書類を少し整理しました。チェルシーが快調で何よりです。

 

久しぶりに何を書くかというと、一個しかまだエントリーしてない鉄道ネタです。

某団体の機関誌に寄稿しようということで、締め切りおそらく秋頃だし、だいぶのんびりやってます。

 

さて、前回のエントリー。

hibari-214.hatenadiary.com

 

そもそも何に関心があったかというと、似たり寄ったりな顔してる電車っているよなーということだったわけです。例えば、「251とマリンライナーはまなす」とか「新京成8900と京王8000」とか。設計をどちらかに合わせた(*1)とか、どちらかがどちらかの派生型であるとか、そういうことがありそうもないような組み合わせで似てるなという印象を持つものは結構あって、そういう部分にどうアプローチかけたら文章にできるかなーと考えている最中です。

 

さて、上に挙げた先のエントリーでは、海外の鉄道車両デザインとの相関関係を調べれば、なんとなく見えてくるものがあるのではないか、という示唆を得ることができます。たぶん。

ただ、すべての車両がなんらかの海外製の車両から影響を受けたデザインをしているかというと、そうではない、ということは容易に想像がつきますね。そして、そうだとすると、国内の車両でもデザイン上の影響があってもおかしくはないはずですよね。もっとも、「デザイン上の影響」を何を持ってそれとするかという問題はありますが(*2)。

 

というわけで、今回当たってみた記事は次の通り。

RJ取材班「電車の顔の見せどころ」

末吉史樹「東京メトロ版 電車の顔」

柳佑太「鉄道車両の前灯」(いずれも『鉄道ジャーナル』2011年10月号より)

どれも参考になりました。いちいちまとめはしません。

 

というわけで(どういうわけか)、なんとなく今後の方針を記して今日は終わり!

 

*次の項目に絞って、車両の顔を分類して表にまとめてみる。

 ・貫通扉の有無(有・無)

 ・貫通扉の位置(左・中央・右→5段階にしてもいいかも)

 ・窓の枚数(1・2・3 くらい?)

 ・窓の高さ(どう区切るか悩み中)

 ・全体の前面形状(どう分類するか悩み中)

 ・ライトとライトケースの形状の違い(有・無)

 ・ライトの形(丸・三角・四角・他?)

 ・ライト(ケース)の数(2・3・4 くらい?)

対象:『鉄道ファン』付録の「新車カタログ」掲載車両すべて

 

その後、何がいえそうかとかは知らない!色についても今回は知らない!

 

年代によって傾向が出たりすると面白いんだけどね。

 

*1 設計や部品を他の車両と揃える動きについては次の記事を参照。

通勤型電車はなぜ、「似たもの同士」が増えた? | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

*2 デザイナーに「そんな他社の車両なんて見てないよ」と言われると、弱ってしまう気もしたのですが、自分は自分の「似ている…!」という感覚をまず表現してみたいので、とりあえずは置いておくことにします。

メタ的な話???〜渋谷らくごと飲み会をふまえて(みたい)〜

 

2月11日(土)、14:00〜のしぶらくに行ったのです。神田松之烝さんを除いて生では初めて、聴かせていただきました。

 

ろっくんさんのマクラと棟梁の滑舌で笑わせてもらい、お馴染みの濃い演出の松之烝さん、「落語っぽい講談」で大笑い、中入り挟んで左談次さんの「宿屋の富」(上方の「高津の富」じゃなくて、江戸落語としての富噺、初めて聴いて面白かったです。もともとどっちの話だったのかとか気になるけど。)、春蝶さんのだいぶさわやかな(!)「芝浜」…相変わらず流れは完璧で、すごいなあ。キュレーターの腕前なのかなあ、噺家のみなさんの腕前でもあるよなあ、なんて思いつつ。

 

そのあとは、半期お仕事(?)でご一緒させていただいたみなさんと反省会という名の飲み会。こっちも飲み会とは言いつつ(そのおふざけ感というか、緩い感じもありつつ)、いつもちゃんとした論点があがるから楽しいわけです。

…それで、そんな1日を過ごして、雑記としてちょっと書きたくなったことがあった(ということにしてみて、)ので、ノリと勢いで黒霧島に酔っぱらいながら書きます。

 

 

時系列無視して飲み会の話からします。その飲み会は、いや、その人たちで集まったらそういう会になるよねーと分かっていながら、しかしやはりぼくにとっては少し特殊な場で、ちゃんと議論になる時間帯があるんですね。しかも突然始まるの。新婚さんたちののろけなのかなんなのかわかんない話含めて、勉強になるし、楽しい。

 

突然始まった話の中には「誕生の哲学」「死の哲学」「生成と消滅の哲学」はあるのに「出産の哲学」がないよね、誰かやれよ、みたいな話もありつつ、一番印象的だったのは「メタ認知は救いになりうるか」というようなことを話した時間でした。

 

メタ的に何かを把握することって、自分の(行為の)偶有性に気づくことに繋がるよね、と。それって「そっか、今とは違う別の可能性もあるんだ!」という救いになりうる。でも一方で「そっか、今とは違う別の可能性もあるけど、ぼくはそうはできない(なれない)よね」という悲しみつらみにもなりうるよねって話(だと理解したよ!)。要はメタ認知ってすごいよく語られるけどそんなにいいこと?特に学習っていう観点からはめちゃくちゃいいこととして説明されるけど、日常的な例を考えると地獄になるときない?って話。だったような。はい。

 

  • 松之烝さんの大工調べと芝浜への言及

 

さて、話は戻ってしぶらく。二番目に出てきた松之烝さんが枕の中でかなり早い段階で言及したのは「今日トリの春蝶さんは、芝浜やるみたい」という旨のことでした。そのあと三番目の左談次さんが「ぼくは結構気にするタイプなんですよ、こういうの」って出だしで笑わせてもらったり、ぼくとしてはとても面白い(マジで爆笑した)流れでした。

 

でもまず、ぼくは今日落語聴くの初めてな人を連れて行ったので、ちょっとそこは、ある種のリテラシーを求めるユーモアが仕掛けられることで疎外感を感じないかどうか心配したところでした。でもこれが言いたいことじゃなくて。

松乃烝さんの、「トリは芝浜ですから」という言及、それから一番目のろっくんの「大工調べ」を参照するような言及(「隣の長屋では棟梁が大家に啖呵切ってんだ」)は、いや寄席の世界ではよくあることと言い条、すごいメタ的な言及だよなあと感じました。自分の出番前後の演目を気にするということは、このしぶらくのこの回、その場について考えて発言するということに他ならないから。そして「このあと左談次師匠が芝浜で重ねてきたらびっくりですよね」という発言含め、それがちゃんと笑いに昇華するって実は日常的にもやってる気がするし、しかしやっぱり技巧的にそれをやってのけること含めてすごいなと思った次第です。

 

でも、なんというか松乃烝師は「大工調べ」を参照するとき、直前の一瞬すごいニヤッとしたので、そのニヤケの謎解き感もあって、うん、すごい。引き込まれちゃうよそんなことされたら。

 

  • 春蝶さんの芝浜

 

さて、そのトリの春蝶さんの芝浜。「五人の男女への返答」ということで始まった、これまでとは一線を画する設定の(もはや新作なんじゃないかってくらい)芝浜は、泣けるし笑えるし最高でした。初めて落語聴く人を連れてってよかったよかったって思いましたね。はい。

 

それで、「これまでとは一線を画する設定」の中身は言ってしまうとつまらないから言わないけど、自分のパフォーマンスに対する「五人の男女」のコメントへの「返答」という仕方で、芝浜の設定を自分なりに再構成したこれから行うパフォーマンスについて、前もって説明する、という行為自体も、どこかメタ的な認識が関わっている気がする。つまり、これまで自分がどのような経緯を辿ってきたのか、これから数十分に渡って自分は何をするのか、といったことを俯瞰できないとそのような説明、というか宣言はできないはずだからだ。

 

何かがなんらかの意味で磨かれるとき(洗練されるとき)ってこういうことが起きてるんじゃないか、と思わせるような事態ではあると思うんですよね。でもどこまで一般化できるのかはやっぱりよくわからない。

 

このあたり、ぼくの以前のエントリー「冗長に、言い訳しながら、発表する自分について - ゔぁみゅーだとらいあんぐる」を含めて、一体なんなのか、という気がして興味深い。そもそも、春蝶さんにしたって、事前にそんなこと言わなくてもよかったのかもしれないじゃない?でも、それがユーモアになるときもあるし、ユーモアにならなくてうざったい長ったらしいことになるときもあるし…。

 

…という話を「君がTwitterに今日の飲み会楽しかったか投稿しないと気になっちゃうよね」という話を受けて(師匠たちに届かないかな、届かないよな、とか思いながら)書いてみました。

 

 

…とか書くと、これは面白いということになるのか?もうこの辺になるとわかんないぞ?

 

 

……とか書くと……

 

 

 

 

…さて、このあともメタ認知をめぐるぼくの思索はなんとなく続いていき、どれだけぼくがそのことによって悲しみを背負うことになるのか気になるところではありますが、今日のところはこの辺りで失礼させていただきます。(深いお辞儀)

あ〜終了〜

ただただかっこいい。ぼくも「まいぷらぎんべいべー!」って叫びたい。意味わかんないけど。

 

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 そんな感じで迎えた昨日、

 

ardacoda.com

 

に行って、修了証をもらいました。

もらったからどうなるのかはあまりよくわかりません。

 

レクチャーと哲学対話の体験を交互にやりつつ、午前(入門講座)と午後(実践講座)で計7時間くらいだっただろうか。午後のファシリテーター体験は最後の方すごい疲れてた。 

 

普段、哲学対話をしていても出会わないような人たちがたくさんいて、よい経験になりました。そして、ああいう場があることはとても大切だと思う。哲学対話を知っている人/哲学対話に関心がある人は、案外多いのかもしれないということが、そこに行けばわかるから。

 

合間合間に何回か質疑の時間が取られたのだけど、そこで出てくる質問がまたすぎょい。覚えているもの(印象的だったもの)を並べてみる。

 

・真偽を確かめる(ために質問する)ことと「答えを出さない」ことの違いは何か?

・答えを出さないで対話を終えるってどうすればいいの?

・こども哲学とおとな哲学の違いは何か?

・哲学対話や哲学することには、今のご時世、どのような意義があるか?

・哲学対話や哲学するときに、「こども」にこだわるのはなぜか?

・実際、社会に出て一人で哲学対話的な態度を取っていても、何にもならないのではないか?

・哲学対話の場の満足度を上げるためには何をしたらよいか?

・哲学対話中の沈黙は、ほんとうに安全なのか?

・学校の教科の授業で取り入れるとき、評価はどのようにすればよいのか?

・こどもたちは、他のこどもが出した問いにも付き合ってくれるのだろうか?

・こどもに対して哲学することの意味を説明するとき、どうすればよいか?

・哲学対話と話し合いの違いは何か?

・一人の子がずーっとしゃべり続けてしまうとき、どのように対処すればよいか?

などなど。

 

普段からこういう活動に関わっていても、うまく答えが出ないまま、ずっと付き合っている問いがいくつもあるように思われる。そして、答える側のアーダコーダの講師陣のみなさんは、それぞれの多様な経験から考えるとどのように答えうるか、ということを、一生懸命にその場で考えてくれていたように見えた。ときに「私たちにもわからない」「まだ自分も考えている」という言い方をしながら。(そして、情報を求めて話を振られてびっくりしたりもした。自分ももうそういう立場なのだろうか。)

 

とにかく、よい講座でしたよ。(高いけど)

というお話なのでした。

 

悟りなどではない!!

書きたいことをノリと勢いで。

 

ぼくは間も無く終わる学部生としての大学での生活の中で、7つくらいの学生サークルと関わりを持ち、うち3つか4つくらいのサークルの運営に関わってきた。

 

どのサークルも、はたから見ればたわいもない、学生の集まりだ。などと言えるようになったのは、サークルを取りまとめる立場にいきなり立ったのだ、とおこがましくも自覚したときだったかもしれない。それまでは、そんなこと考えもせず、ただ呑気に、無責任に暮らしていた。気がする。

 

その後、ぼくの関わったサークルはいい意味でも悪い意味でもどこか吹き溜まりのようなところだった。

 

どうなのだろう。ぼくのいたサークルの人たちにとって「吹き溜まりのようなところ」という表現はどう響くのだろう。いずれのサークルでも「ゆるく」「たのしく」「心地よく」みたいなことが重視されていた、ようにぼくは認識している。それぞれ意味合いは違えど、なんらかの意味で「心地よい」居場所を求めて、その場を創ったり、その場に集まったり、その場からいなくなってみたりしていた、ようにぼくには見えた。

 

そんなサークルだから起こったのかなあ。

 

要はいろんなこと考えたくないっていう態度を多くの人がとってしまうってことだ。どのサークルでも経験したと思う。かの「もうこれ考えるのやめたいみたいな雰囲気」現象である。

 

ぼくはそういうときこんなことを思っていた。
「会計の仕方について話すとどんよりするってことは、みんな年度初めに払った部費はドブに捨てた感覚なんだろうか」「会則について話すとどんよりするってことは、誰かが突如サークルを掌握して独裁を始めてもいいと思ってるんだろうか」などなど。幼いと思われるかもしれないけれど、ぼくにとってはほとんどのことが自分や自分の周りにいるひとの居場所を懸けた何かだった。

 

でもほら、考えたくなさそうだし。
そしてぼくは、別にいまどうにかしなきゃいけないことでもないか、と思ってみたり、あとで一人で考えときゃいいか、と思って先延ばしにしてみたり、そういうありがちな孤独感に従って拗ねてみたり、でも多少は頑張らなきゃと思って必死になってみたり、していた(頻度順)。

 

そんなことを繰り返していると、あるサークルでは「老害」と言われてみたり、あるサークルでは「神のような存在」「サークルを熟知し、何かを悟ったかのように課題を考え出す人」と形容されてみたり。どっちもどっちだし、勘弁してほしい。別に意地悪したくて言ってるわけじゃないし、何かの悟りに基づいて修行のように何かを考えてるつもりもなく、心地よく過ごして、心地よく過ごすためにどうすればいいかなーと考えてるだけだ。

 

どうやら、何かについて考えたい人と考えたくない人がいるらしい。今回はそういう話に落ち着いた気がする(たぶん、次サークルでの日々について考えたら違う話になってるから、またどこかで書く)。

 

ぼくがわからなくなったことを書く場所になってるよね。

冗長に、言い訳しながら、発表する自分について

卒論ゼミでの最後の発表が終わった。卒論の内容を7、8分ずつ話して質問を受けるという場だった。

 

ぼくの発表についた(卒論それ自体ではなく、発表)コメントは次のようなものである。

・頭のいい人が喋っている
・自己卑下が多い
・ウザい
・無駄にハードルを下げている

 

そう見えるんだろうなと思う。

 

冒頭、「このゼミで一番つまらない発表だからトイレに行くなり、お茶飲むなり、リラックスしていてください」と前置き、「出来も自分では満足していない」などと言いながら、卒論の構造を説明し、調査対象となった「教室での哲学対話」について説明し、「やっぱりうまくいかなかった」「レジュメに書いてあるから、興味ある人はお家で適当に読んでください」などと言って考察部分の紹介を端折った。ぼくは、他の人に比べてこういうことをしがちだ。

 

みんなはいつだってちゃんと自分の書いたものや取ってきたデータについて説明していて、ほんとうにえらいと思う。

 

レジュメを作るとき、そんなことを自分が言うだなんて全く想像していない。いつも忘れたかのようにレジュメを一から読み上げるんだくらいの気持ちで作っている。今回も実はそうだった。当日の朝、電車の中で赤を入れて「ここはこうやって飛ばして、ここを重点的に説明して、哲学対話なんて初めての人が多いからここは押さえないと…」なんていう作業もしている。でも、みんなの発表を聞いているとそんなことはほんとうにどうでもよくなる。

 

自分は満足していないし、ましてや誰かを唸らせる何かを書けたわけでも、誰かを納得させられるような何かを言いたいのでもない。一応、限られた時間の中でも「何か読んだ人にとって意味のあるものを」と意気込んで書いていて、でもぼくの中ではそこに至らないのだ。このことをまず伝えなければならない、と思ってしまう。

 

それは何かのハードルを下げているのだろうか。

 

なんか、ぼくのある種のアイデンティティを守るためのパフォーマンスである気はする。頭のいい人としてゼミにいたいのかもしれない。そうしたときウザがられるのは、なんとなくわかる。でも、そんなこと考えながら話してるわけじゃない。

 

ただ、あの場で何かを喋ろうとするとそうなってしまうのだ。

 

実習生として教壇に立ったときも、企画で司会をやらせていただいたときも、同じような感じが漂っていた気がする。ああいう仕方以外の「なにか」の崩し方をぼくは知らないのかもしれない。

 

どういうことなんだろう…。