ゔぁみゅーだとらいあんぐる

雑記帳です。ほんとうにノリと勢いだけで何でも書きます。タイトルは作った翌日に先輩につけてもらいました。

お茶小140周年記念シンポにいったのでふがいない感想を記録する。

お茶の水女子大学附属小学校開校140周年記念シンポジウム(「「子どもから」の伝統が拓く明日の教育ー市民性の育成と新教科「てつがく」の挑戦 ー」)を聞いてきました。

本当にメモ程度というかモノローグのようなエントリ(いつもそうだろ!)になると思うけれど、シンポでのお話を、どのように理解して、どのように考えたか残しておこうと思います。

と思って書き始めて気づいたのだけれど、3人の登壇者のお話が終わった時点から、なんか自分一人で考え込んでいて、質疑とかほとんど聞いてなかったっぽいです。聞いてたらいつもメモ取ってるはずなんだけど…不適切な過ごし方をしたかもしれない。かなしい。反省。

 

*全体の流れ

 

シンポジウムでは、まず、お茶小実践の映像が流された。

低学年・中学年・高学年のサークル対話・「てつがく」の様子を、それぞれ5分程度だろうか、哲学対話している映像を字幕付きで見ることとなった。

その上で、3人の登壇者がそれぞれに話題提供し、相互に質問しあう時間、フロアからの質問に答える時間、みたいな流れ。

 

*小玉重夫先生のお話:「哲学教育と市民性教育の架橋」

それぞれの区別がどのように連関しているのか、改めてまとめようとすると理解しきれてない、と思うけど、いくつかの重要な理論的区別が示されたという印象だった。

・ある1つのテーマをめぐってなされる哲学対話の中で、その思考の対象になる価値が複数に及び、個々の児童・生徒がその価値を「自由に往還するイメージ」の授業が展開されることになる。

・そこで、教師は、「説明する」存在から「翻訳する」存在へ、「超越する」存在から「間に立つ」存在へと転換されていく。

・(Biesta2018)を引き合いに出しながら、)あるテーマをめぐる「不和(意見の違い・対立・認識のズレ)」を「顕在化させて前提を壊していく」ような教育をしている(いく)ことになるのではないか。

・そのとき、教師(ファシリテーター)は、哲学の専門家(アカデミズム)と哲学の素人(市民)をつなぐ、新しいタイプの哲学に関する専門職(高度なアマチュア?)になる*1

 

*思ったこと

小玉先生の示した哲学やファシリテーターの位置付けは、異なる認識を持った生徒同士を繋ぐ、専門家と市民を繋ぐというイメージだった。

たしかに、哲学対話の授業をしていて、「翻訳する」存在としてファシリテーターをしている感覚は、確かにある。というのも、生徒の発言から、異なる立場や認識をわかりやすく言葉として拾って、教室全体に向けて共有する、ということをしている、という実感があるからだろう。それによって、「不和」が顕在化する…なるほど。「不和」ってシンポの質疑の場でもそうだったのだろうけど、一般に印象されることと違うことも含めてさしていそう、な気がする。

でも、うーん。どうなんだろうな、ぼくは、ファシリ的に立場や認識を整理すること、をみんなができるようになったほうがいいんじゃないか、ということをずっとどこかで思っているような気がする。単に「不和」が顕在化するような教室空間を経験する(させる)ということにとどまらず、必要に応じて「不和」に向き合える存在に、個々の生徒がいつかなってくれればいいなあ、と思っている。んだなあ。

 

*神戸和佳子先生のお話:「なぜ、「てつがく」すると道徳性が育まれるのか?」

 

中学校・高校での哲学対話(哲学教育)の実践者の立場から

・現場で聞く哲学対話に関する懸念を整理し、

・「てつがく」で育まれる道徳性について、先に見た映像をもとに検討する。

みたいな流れの発表だったと思う。

 

・現場での懸念について

 自由に発言するのはいいけど、望ましくない発言・振る舞いにどう対処すべきか?

 教師が教え込まないのだとすると、児童・生徒の理解・成長に支障をきたすのでは?

 徳目を問い直すような場面は容易に想像できて、それだとそもそも道徳教育として矛盾しないか?

じゃあ、「てつがく」はどのように道徳性を育んでいるのか?

 

・映像で起こっていることから言えそうなこと*2

 自分の意見を諦めずにどうにか説明しよう/他者の意見を諦めずにどうにか理解しよう、ということができるための「忍耐」「信頼」が、お茶小の実践にはあるように見える。自分・他者・世界への、そのような倫理的態度*3が、ほんとうに「問いたい」、あるいはほんとうに「知りたい」ということを原点に可能になっているのではないか。

 

・提案

「伝えきれなかった」「理解しきれなかった」「わからなくなった」のような、できなかったことも、上のような倫理的態度への一歩だとするなら、まずその点をうまく評価することはできないだろうか。

 

*思ったこと

自分の意見を諦めずにどうにか説明しよう/他者の意見を諦めずにどうにか理解しよう、という共同体が可能になるための倫理的態度は、どこからくるのだろう、とやっぱり思ってしまう。ぼくの記憶では、神戸先生は「問いたい」「知りたい」を強調されていたように思う、のだけれど、一方でぼくの実感としては、「問いたい」「知りたい」ってあんまりフツーの欲望・意志ではない気がして…それがフツーじゃないかもしれないことを踏まえてない発表だった、と言っているわけではなく、いつもそのフツーじゃなさがどこまで伝わってくれるか、みたいな格闘している気になってるなあとふと思ったということ。

身近に「哲学対話なんて、ほんとうに学校でやれてるわけ?信じられない。だって、学校で周りに対して「何考えてるか知りたい」なんて全然思わなかったもの」という人がそれなりにいる自分としては、あるいは純粋に「訊きたい」「知りたい」みたいな気持ちをどこかでかなり抑圧して教室にいた自分としては、「問いたい」「知りたい」を駆動するものがなんなのか考えてみたい気持ちが強い、のだなあ*4

あるいは、「問いたい」「知りたい」がすでに「忍耐」によって可能になる、ということなんだろうか。

 

*奈須正裕先生のお話:「今、日本の教育課程に「てつがく」を位置付ける意味」

 

こんどの指導要領にも深く関わっていらっしゃる奈須先生のお話。初めて話聞くからだろうけど本命登場って感じが自分の中ではあった。ぼくの座席の角度からはなんか石破さんに似てるなと見えた(総裁選当日だったからかな)。

・学校の教育課程は、基本的には、国語・算数…のような「学科課程」と生活・総合・道徳…のような「生活課程」の二つから成る

→「学科課程」に「てつがく」を位置付けることは現実的ではないだろう

・「生活課程」に位置付ける場合、「道徳」や「総合」と同格の一つとして、「道徳」の一部・代替として、「総合」の一部・代替として、という三つのケースが考えうる。あるいは、独立したメタ学習を担う位置付け(バカロレアにおけるTOKのような)もありえる

・「てつがく」で生じていることは、主に①「問うこと」を学ぶことと②「教科」を学ぶ意味を問い、深めること③自分の考えを表現し、表現をもとに考えること④AL的な柔軟な学習観の形成、の4つだ

・具体的な個々の生活の中から「学科課程」で通用するような抽象的な事柄を抽出・吟味する、ということが学校に求められるとすると、「てつがく」の可能性は無視できない*5

 

*思ったこと

奈須先生の示した位置付けは、各教科(学問)の前提を明らかにして問い直すことで、学科課程(科学)と生活課程(生活)をつなぐもの、あるいは、学習者にとってのメタ学習領域を担うもの、としての哲学(的思考)だった、と思う。いくつかの可能性が示されただけで、これがよい!という立場は示されていなかったかもしれない。

教員としてのぼくは、メタ学習領域としての哲学対話みたいな部分への関心が強すぎるな、と反省する機会になった。ある程度慣れてきたら、自分たちで対話できるようになってほしいし、そのために、対話を振り返る、学習を振り返る、どうやったらもっとうまく参加できるのか、対話できるのか、考える、 ということをしていってほしい、と強く思っている。たぶん、自分が哲学対話に惹かれた側面なんだろうと思う。「哲学」を修めていないということも関係しているだろう。「哲学をどのように社会/教育で活かせるか」というテーマ*6は、仕事上関心はあるけど、ぼくの問いではない。むしろ、この活動の形式がどのような教育/学習を促すのか、ということにこそ、実践的な関心があるのだろうと思う。そんな反省をした、なあ。

ところで、学科課程(科学)と生活課程(生活)をつなぐものとしての哲学の授業ってどのように可能なんだろうか。極端に言えば、大学の哲学入門みたいなことを学校でやればいいって話?なのか?それとも、哲学対話してればいいって話?でもなくない?

 

 

書こうとすればするほど混乱してきた。

人と人の間に立つ、とか、抽象的な知識と具体的な生活をつなぐ、とか、「忍耐」「信頼」を(自然と)身につける、とか、どこまで学校に求めるべきなのだろう。そして、どこまでがこれまでも学校でやられてきたことで、どこからが「てつがく」の位置付けによって強調したいことなのだろう。

ぼくは、「てつがく」の可能性を議論することと矛盾しない形で、「てつがく」(もっというと、「学校の中の哲学」)に背負わせている事柄の多さにも向き合う必要があるように思ったのでした。

*1:少なくとも最後の点は哲学プラクティス学会のシンポでも言及があったこと。下記リンクにてそのときの資料が公開されています。

https://researchmap.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=multidatabase_view_main_detail&content_id=22441&multidatabase_id=7080&block_id=1779165#_1779165

*2:冒頭で見た映像をもとに検討なさっていたので、ちゃんとわかるようにするには、映像と、映像に対するコメントも拾わないといけないんだけど、流石に無理そうだし、結論部的なところまで飛びます。。

*3:なるほど、まさにここが倫理的なのか、とそのときは思った

*4:この点は哲プラ学会のクリシンワークショップでも議論になった点であった、と理解しています。

*5:このへん記憶の自信がない

*6:ぼくには「なんのために”哲学することに意義がある”と言えば、その言葉が説得的に聞こえるんだろうか」みたいな問いに、多くの場合聞こえている

さろん哲学さんの『みんなで考えよう』合評会に参加した

youtu.be

ぼくは、冨田勲という人が日本の音楽界に与えた影響であったり、シンセサイザーが音響に関してどのような変化をもたらしたのか、それが当時どのくらいのインパクトだったのか、そういうことを知らない。いろんなところで言及されてるのは見聞きするけれど。

でもこの曲は知っているし、案外電子的な音楽というのか、こういう音色だったり、FM音源だったり、MIDI音源だったり、の音色は好きだ。音色から自分の知らないそう遠くない過去を想像しながら聞いていたりするのだろうけど、でもそれとは別に、単純にこういう音色が好きだな、と思ったりもする。そういう単純な感覚、意外と忘れがちだなあと思ったり思わなかったり。

 

 

あ、よく冒頭と最後に楽曲の動画を張りますが、すべてに精通してるわけじゃないです。まくらですからね。気分ですよ。

 

 

長く哲学カフェの実践を続けている「さろん哲学」さん。

http://salon-public.com/

『みんなで考えよう 創刊号』の合評会という企画が立ち上がっていたので、参加しましたの報告です。*1

 

参加しようと思ったのは、企画者の方のアツさを連絡会当日に感じたこと(お話しさせていただいて)、編集委員からは他に参加しなさそうだなと感じたこと(なんとなく)、もあるけどなにより、ほんとうに珠玉の原稿が集まったなという感覚があったからです。

これまでにない目次・内容を思いつきで期待したのはこっちだけど、執筆者の方がほんとう実現していただいたな、みたいな。投げかけてみるもんだな、というと、ちょっと偉そうにみえるかもですけど、ぼく自身、編集作業しているうちにどんどんモチベーションが上がる感じがあって、すごくよい経験をさせていただいたなと思っているのです。ぼくは。

そんなわけで、本誌にガチ恋なので*2、イベントあるなら行かなきゃ!みたいなテンションが原点です。

 

 

私を含めて、11名の参加者が渋谷のカフェの会議室に集まったのだけど、もうこの時点で感動ものである。初めて会う人ばっかり。ぼくがいかに狭い世間に生きているのかを改めて思う。ある程度自覚的でいるつもりなんですけどね。でも多分甘いんだわ。

話はそれるけれど、ぼくと哲学対話なるものの関係は不思議だ。最初は人に誘われて、そこへ行ってみて、そこでさらに勧められた授業や場に出て、そこでさらに…としている中で、いつの間にかいまの状態に…という感じなのだけれど、その中で、ぼくの世間が広がったというよりは(もちろんそういう時期もあったけれど)、世間が狭いと思わされる経験が多かったからだ。

こういうことを言うと、「最近の若いもん(別のこの主語じゃなくていいんだけど、多分「大学院生」でも「教員」でも、ぼくの個人名でもいいんだろうけども。)は、外に出て人脈も視野も広げる気がないから…」という(誰のでもない、あるいは自分の)声が聞こえてくる気がする。just 気がする。ごめんなさいごめんなさいの気持ちとほっといてくれーたのむーの気持ち。でもどこか正論かのように自分の中に響くとこはあって、具体的にどうしたらいいんだろう、という感じにもなるよねー。

 

なんの話やねん。

 

 

普段調子いいときは、内的にはこんな感じで過ごしています。

自分でつっこめるときは割と調子がいい気がする。

 

 

さて、合評会は、企画者の方からどう進めるかから話を進めてくださり、それがまた心地よいというか、安心感。結果決まった進め方は次の通り。

・全17本の原稿について、一人でも扱いたいと希望のあった原稿を扱う。

・それぞれの原稿について、担当の評者を決め、準備時間(20分程度)の間に原稿の内容と寸評を用意する。

・評者によるまとめ・寸評(3分)→全体での議論(10分)→執筆者がいるものについては応答(2分程度)という流れで進める。

この会のためにとった時間が3時間強ほどだったということもあり、参加者から希望のあった15本全部を扱い切ることはできなかったのだけれど、どの原稿に関する議論も、少なくともぼくにとっては、新鮮だったように思う。

 

 

結果的に10本かそれくらいに関してそれぞれ議論したのでした。ここで全部の議論を追うことはできないので(ぼくの記憶能力的にも)、印象的だったところを二つ。

 

 

一つは、水谷みつるさんの「哲学カウンセリング・トレーニング体験記―V・チェルネンコ氏と同僚たちとの1年7か月を振り返って―」*3についての議論から出てきた論点。担当の評者の方が言ったのか、全体での議論で言われたのか、そもそも一人の方が言ったのか忘れたけど、次のような感想があったと記憶している。

ここで紹介されているチェルネンコ氏(や、ブルニフィエ氏)のカウンセリングは、「なぜそんな長い問いを立てるのか」、「いまの答えは問いに答えているのか」という問い方からして新鮮で、単に「うんうんと聞く」だけでない、ましてや「うんうんと聞く」ことは優先されない場であるように思える、と。自分(たち)の知っている哲学カフェの場と比べて、哲学の技術的な部分にこだわっている感じや、発言・考えの論理的な構造にアプローチすることを目指している感じが、「強そう」に思える、と。

最後には「これってほんとうにカウンセリングなの?(クライエントの悩み、不安みたいなものは解決・解消するものなの?)」という問いも出てきていたように思う。

ぼくも確かに、哲学プラクティス的な場に参加するときに、どれくらい気を使わずに問いを発してよいか、みたいなことはいつも考えているな、と思った。そしてそれは、例えばある人の発言に、「なぜ?」「こういう場合もあるのでは?」と訊くことが、ある場合にはケアとみなされ、ある場合には単に傷つける行為だとみなされることがある、ということを知っている(経験してきた)からだと思う。

具体的に想像してみると、質問する人/される人のその日その場での振る舞い(言い方や表情)とか、事前の説明(主催者やファシリの場作りの方向性?)とか、それぞれの文脈に埋め込まれた問題はたくさんあるだろう。そして、実践的には、(少なくとも自分がほんとうにうまく集中できているときには、)その場で、その人の雰囲気みたいなものを感じながら、その人の人格の一部みたいなところも発言から想像したりしながら、質問したりしなかったり、言い方を変えたり、一呼吸入れてから質問したり、しているんだろうと思う。

ぼくは、それぞれの場でできることとできないことがある、と思っている。ので、「強そう」なカウンセリングの場では、「強そう」だからできることがあるんだろうと思っている。でも、それってなんだろう。哲学カウンセリング、この夏以降ぼくの周りでは勉強する人が増えた感覚があるけれど、どうなんですかね。時間できたらぼくも読みますけど、例えば心理カウンセリングと比べて、明らかに違う成果とかはありうるんでしょうか。

それから、少し関わりつつ、全体での議論の後にぽろっと出てきた「チェルネンコさんみたいじゃない哲学カウンセリングもあるんですか?」という問いも大事だと思う。なんかいつかどっかで、なんとなく傾向の違いみたいなのがあるよーという話を聞いた気がします、という話を勝手にしてしまったけれど、全然不勉強です(とも言った)。

 

 

もう一つ興味深かったのは、しばたはるさんの「対話と圧力、その来歴」*4に関する議論で上がってきた、「この原稿はどこがどういうふうに哲学プラクティスなのか?」という問い。

たしかに。ニュースを見た個人のエッセイが哲学プラクティスになるのであれば、哲学プラクティスってなんなんだろう?みたいな問い、めっちゃ響きます。ぼくは、なぜか、この原稿が概念を検討しているから哲学的だなあ、と勝手に思って、その点をスルーしていたのですけど、「内容が哲学的かとは別に哲学プラクティス的かという検討があってもいい」という指摘はその通りだと思いました。

ぼくの中ではそこで止まってしまっていて、「何を載せるべきか」ということと「何を哲学プラクティス的とみなすか」ということはどれくらいどのように関係しているべきなんのでしょう。あるいは、これも「みんなで考えよう」と「みんな」は思えるでしょうか。ちょっと不安になりつつ、投げかけてみたい気持ち。

 

 

そのあと、近くのお店で懇親会がありました。この辺から「さろん」の雰囲気(?)をなんとなく掴めてきた気がする。それぞれどういう距離感なのかな、みたいなところが。

ぼくはぼくで、自分勝手に、某学会のこと(愚痴)とか、近況(愚痴)とか、なんとか、えらそうにいろいろ喋りました。なんかごめんなさいと思いつつ、聞いてくださってありがとうと思いつつ。

たまにでいいから「P4C系の人」とか「研究してる人」とか、そういうんじゃなくって集まろうよ、という趣旨、賛同します*5。まだぼくは自分のことで手一杯だけれど、できる範囲で行きたいし、お手伝いもしたいです。と言えるようになるには、もうちょっとちゃんとしろって感じがしたので、撤回しませんけど、小さくそういう自覚を記します。。

 

 

そこで宣伝のあった「8周年記念スペシャル企画 さろんRemix 「池上大捜査線」」というイベントにも参加しました。くじ引きでアイドルのロールプレイを引き当て、アイドルという役割を背負って街を歩き写真を撮るということをしました。別の役割を背負った別の参加者の方に隠し撮りされていたり、キューティクルをただ褒められたり、はい、楽しかったです。

何より、こんなよくわからないふらついた若い人を、特に自己紹介もなく、別段いろいろ聞き立てるでもなく、受け入れてくれた「さろん哲学」さんの懐の広さに頭が上がらないです。ぼく自身が強くこのことを感じるのは、まさにこのタイミングでこの場と出会ったからなのだろうけど、でも一歩家から外に出てみてよかった、といまは思っています。

ありがとうございました。

 

今日はここまで。

 

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追記:2018/9/26

『みんなで考えよう 創刊号』へのレス等のまとめ

 

①読んで考えてくださった記事

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

②波止場てつがくカフェさんの記事

www.hatoba-de-dialogue.net

 

③執筆者の一人、古賀裕也さんはご自身のResearchMapでも記していただいている

researchmap.jp

 

 

*1:『みんなで考えよう 創刊号』は現在、下記ページで閲覧可能です。

http://philosophicalpractice.jp/journal/

*2:これまでいくつかの同人誌の原稿執筆や編集に関わってきましたが、こんなにストレートにこれはいいから読んでほしい!と思えてしまったのははじめてです。

*3:

http:// http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/15.pdf

*4:HP上だと「葦、天気をうかがう~「対話」と「圧力」の関係について~」というタイトルになってしまっていて、これは実は変更前のタイトルなので、変更依頼中です。

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/11.pdf

*5:当たり前かもだけど、ぼくは案外自分が「何系の人」とみられているのかわかってないです。あー、ただ、まだそんなのなくてもいい気はするけど。

intermission 01 : あんまり言葉にできてない、という不安

youtu.be

YouTubeでの公開は2011年になってるけど、ニコ動の方で公開されたのは2010年の6月だったと思う。高校の3階の校舎の、窓辺のロッカーに座って、きれいな冬晴れの空を見ながら、この曲を聴きながらたそがれていた記憶が、聴くたびに思い出される。

ぼくの音楽経験は、大抵、それを集中的に聞いていた時期の印象的な風景や気分と同時に思い出される。いまお気に入りの曲たちは、2年後どういう風に聴かれ、思い出されるのだろう。

 

 

二学期の授業がはじまった。といっても、関わっている学校全てが9月の中旬〜後半を学校祭や体育祭などの期間としている関係もあり、ぼくのお仕事は、9月前半の1、2回だけである。夏休み明けということもあるから、いきなりフルスピードで集中して「みんなで考える」ことに導ける自信もなく、一校は協議の末コミュニティボール作り、もう一校は1学期末のアンケートへのお返事と質問ゲームをするということになった。

 

 

特にテーマの指定もなく募集した問いからクラスごとに選んだ問いを対話する、という形の授業を3回やったあとに行ったアンケートでは、概ね次の4つのことを聞いた。

 

①あなたにとって「哲学対話」はどのような時間ですか?

②昨年度の哲学対話と比べて変化したことはなんですか?*1

③この時間ががあなたにとって意味のある時間になるために、何が変わればいいと思いますか?

 ④ほかに伝えておきたいこと(要望、感想、質問とか)があれば書いてください。

 

さて、やってみての感想。真面目な回答も不真面目な回答もごちゃまぜになってやってくるアンケートに向き合うのは、楽しくもあり、しかしかなりしんどい作業でもあった。元気じゃないとできない、というのは、たぶんその通りだと思った。不真面目な回答はともかく、真面目な回答を一個一個受けとめるのは、難しいことなように思われた。

真面目な回答として、私への、教室への、学校への不満がにじみ出るもの、あるいは直接批判するもの、これまた真面目な回答として、私を、教室を、学校を全肯定してくるもの、理由はわからないけれどぼく個人を応援してくれている回答、趣味という接点でしかぼく(とぼくが持っている授業)に関心を抱かない回答…などなど、それぞれにそれぞれの色のついた世界がある。なんかこう、「2001年宇宙の旅」の'Star Gate'(船長がモノリスに吸い込まれていく?その瞬間)のシーンを見ているみたいな、素晴らしい出会いばかりなのにどこか気色悪いような、受け止めきれないような、あまりに揺さぶられて酔ってしまうような、そんな気分になった(伝わらない)。とりあえず読んでも超人にならないことはわかっている。超人にはなれないけれど、ぼくが、授業を振り返り、生徒の姿を振り返り、次の学期(といっても数回の授業だけれど)をどういったことのために共に過ごせばよいか、考える十分な材料になった。

 

真面目な回答も不真面目な回答も、あるいはそうでない回答も、ありがとうありがとう。みんな生きているだけでえらいのに学校に来てこういうことに付き合ってくれる。ほんとうにえらい。学校で言える機会はほんとうにないけれど(突然言うのはやっぱり変なのだ)。だからもう一回ありがとう(伝わるのかわかんないけど)。

 

反省したこともある。配布時、ぼくはふざけた回答をしてくれていい、ただし、ふざけるなら笑わせてほしい、と言う。どういう形でもいいから笑わせるか考えさせるかしてほしい。なぜだかそんな回答を期待している。あまり理由はないのである。こうして、大人というのは傲慢なのである。私も、御多分に洩れず、そういう部分だけは、大人の一人になりつつある。たぶん、「あーはいはい、こういうこと書けばいいんでしょ、書いてやったから出すね」みたいな態度と、どう付き合っていったらいいのかわからないというだけだと思う。自分も生徒・学生であるときにはそういう態度取ることあるのにねえ。やっぱり傲慢なのである。反省。反省。

 

 

特に③④の回答の中で目立ったのは「先生がもっと進行する」「先生がちゃんと注意してほしい」「授業なんだからもっとやる気出して」みたいなタイプの回答である。

ぼくのやる気が伝わらないのは、それはそれとしてぼくにとって悲しいことである。ぼくが普段出している表情が理解されない(=ずっと死んだ顔しているように思われている)問題に似ている。

で、それはそれとして、こうした回答*2から、かなーり極端に前提を読み込もうとすると、次のことを読み込めるように思う。

 

・授業は、先生が進行する場である

・その進行の仕方は、先生しか知らないものである

・どうしてそのような進行をするのか(授業の進め方の背後にある目的)ということも、先生しか知らないものである

・その目的は、生徒にとって(なんらかの意味で)教育的に有意義なものなければならない

・どのように授業が進むことが望ましいかを知っているのは先生だけなので、進行を妨げることが起こらないよう配慮する(例:他の生徒の邪魔をする生徒を注意する)のも先生の義務の一つである

・先生が、いかなる仕方でも授業の進行を放棄したり、進行のために必要な配慮を怠ったりした場合、それは先生のやる気のなさの現れである

 

いや、こんなことは書いてないし、考えてもないとは思うのだけど、でも、なんというかな、授業ってこういうもんでしょ!お前もわかってんだろ、そろそろちゃんとやれよ!(怒)みたいなことを言われた気になったのです。

 

このことを意識しながら夏休み明けの授業では、明確に、「ぼくがいないと考えられない人になってほしくない」と言ってみました。応答するなら、これに尽きるよな、と思えたのでした。ぼくは教室へ行って、一緒に考えることをするし、一緒に考えるための工夫も考えるし、一緒に考えるための時間の使い方も考えてくるし、一緒に考えようって啖呵切る人になるし、他の人の邪魔してる人がいたら「それ一緒に考える人としてふさわしくないよね!」みたいな注意さえするわけだけど、それでいて、矛盾するかもしれないけれど、ぼく(のような存在≒先生)がいないと問いを見つけられなかったり、考えを進められなかったり、対話できなかったり、そういう人になってほしくないのだ。でも、矛盾しないのかなあ、などと不安になったり。んーどうなんだろう。

ぼくのこうした態度には、「普通の教科の授業」との差別化の意識も働いていると思う。あまりうまく言えないけれど、先生しか知らない知識を先生のペースで知っていくという作業だけをしていていいようには、やっぱり思えないのである。みずから「考える」ということを実感するためには、(少なくとも学校的に)決められたペースやリズムからは外れたコミュニケーションの中で「考える」ことを経験しないとなんじゃないか、となぜだか思っている。うーん。なんだかよくわからない。

ぼくは哲学対話に何を背負わせようとしていて、どういう哲学対話をしたいと思っているのだろうか。あんまり言葉にできているように思えない。のである。でもずっと考えている。たぶんまた、授業する中で進む考えもあるし、そのとき見つかる言葉もあるんだろうな。

 

 

youtu.be

*1:このアンケートの対象者は、全員が去年15回の「哲学対話」の授業を経験している

*2:一応念のために書いておくと、上記3つは回答の抜粋ではありません。シンプルに書いてくれものもあれば、かなり詳しく思いの丈を述べてくれたものまでありました。

哲学プラクティス連絡会に参加した②

youtu.be

随分前の曲だな、という印象があって、高校の同期とかは、なんか一緒にドライブに行くと必ずこの曲をかけてくれるんだけれども、聴くたびに全然違う気持ちになるなと思う。そういう不思議な曲っていくつかあるなあ。

たしかこの曲は劇場版SAOの主題歌か何かで、劇場版SAOも同期で集まったとき一緒にディスクで見たと思うんだけど、途中からぼくがめっちゃ設定とストーリーに突っ込みまくってうるさかった&空気悪くしまくったという記憶がある。そんときはごめんなさい。でも、決定的におかしいストーリーだったと思う(何をいったかは覚えてない)。

 

 

一人で授業するときも大概そうなんだけど、いきなり直球で本題に入るっていうことができなくて、全く関係ないことを最初に持ってきてしまう*1。だからあんまり気にしないで本題を読んでください。談志曰く、「マクラが長いやつは、それだけ自分に自信がない」。なんかのマクラで言ってた。自信というか、勇気がないんです。何にだよ。

 

 

前回の続きです。前回はお昼休み前までを振り返ったのでした。

hibari-214.hatenadiary.com

 

 

◯お昼休み

製本版の機関誌に訂正用のシールを貼ったり、お昼を食べたり。

シール貼りのお手伝いをしてくださった方々、ありがとうございました。

 

 

④ブース発表

そんなことをしながら駄弁ったりなんだりしていると、同日に神戸で開催されていた「p4cかたろうかい」のネット中継が始まるという一報が入り、そちらの教室へ移動。

www.facebook.com

結局、実は音声がよく聞こえなかったので、向こうの会場にいらした方々の顔を見る儀式みたいな感じだったと思う。こちらの会場もブース発表を見るための時間ということで、教室に人が溢れていて、そんな感じだった。「p4cかたろうかい」で発表されていた何人かの方は、こちらの会場にも同じポスターを送ってくださったようで、発表内容を見ることができた。

↓みたいな感じだったらしい。そっか、こんな感じで残しておけば、お互いにこんな感じで読んで情報共有できるんだ、というか、こんな感じでいいんだ、いいよね、と思って、このエントリーも書いてみている。そのあたりが、さすが先輩なのである。

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

話は戻って、ブース発表。といっても、ちょっと会場を歩くと、普段ほとんどお会いしない方々からもご挨拶いただくなどして、そんなこんなで話し込んでいるうちに次の枠の時間に。まさに「連絡」会というか、このとき初めてお祭りなんだなあと思った。

 

 

 

⑤盛岡千帆・ 木下真希・栗山えりか

「若手実践者、図書館司書と考える 哲学対話と絵本」

 

江戸川区にある子ども未来館という施設では、哲学対話をふくんだプログラム(哲学ゼミ、って呼んでた気がする)が、通年で毎月、登録制で続けられている*2。そこでファシリテーションなどのお手伝いを継続的にしているお二人+そこでその日の哲学対話に関係する絵本を子どもたちに毎回紹介してくださる*3司書の方によるワークショップ。どれくらいかな、30人強くらい参加者がいたような気がする。

まず、「p4cかたろうかい」で発表されていた角田将太郎さんの「こども哲学向け絵本ナンバー1はどれだ!?」の発表内容(ポスター)が共有された。絵本と子どもの思考についての理論的な考察がいくつかレビュー・整理されていた*4

次に、栗山さんセレクションの絵本3冊の概要が説明され、「この場で哲学対話する(問い出しする)ために読みたい絵本を選ぶ」よう指示があった。ちょっとどういう3冊からなんという絵本が選ばれたのか忘れてしまったけれど、とにかく多数決で1冊が選ばれた。

続いて、栗山さんによる読み聞かせがあり、それを受けて参加者による問い出し。

おそらく参加者の多くが哲学対話に慣れていたのだろう、一個問いや感想が出ると、本文に依拠してもう一回確認してみようとなったり、別の参加者に対する質問が問いとして提出されたり、かなり面白かった。時間の都合で、出された問いを選んで本格的に対話、という段階までは行けなかったのだけれど、とても楽しかった。

最後に、若手実践者(木下さん・盛岡さん)と図書館司書(栗山さん)によるミニ・トークセッションみたいなフェーズがあった。主に木下さんが栗山さんに質問するフェーズになっていたと思う(そしてそれでよかったと思う)。質問を覚えているだけ。

・今回の哲学対話はどうだったか

・子どもたち相手に普段本を勧めたり紹介したりするために選書するときと、哲学対話のために選書するときとで意識の違いはあるのか

・毎月の哲学対話の活動をどのように捉えているのか

印象的だったのは、

・アニマシオン等のワークショップをやるよりもよい感じがする

・どのようにその本(読み聞かせ)を子どもたちが受け取っているかが正直にわかるのが面白い

という主旨のことを栗山さんがおっしゃっていたこと。

全体にすごい忙しいワークショップだったので、それほど欲張らなくてもよかったのでは、と思ったりしたのだけれど、単純に哲学対話するWSが今回の連絡会にはほかになかったので、なんかよかったと思った。それから、「哲学対話に向いた絵本はどのような絵本か」のような、哲学対話を軸とした関心(角田さんの関心の方向性)を掘るのも面白そうだけど、「アニマシオンやブックトークなどの活動と哲学対話はどのように異なるのか*5」みたいな、読書教育的諸活動を軸とした関心を掘るのも、実践的に面白いかなと思いました。

 

※2018/9/3追記

上記WSを主催された木下さんがFacebookでふりかえりを投稿なさっていたので、許可を得て、共有します。もっとわかりやすいと思われます。

www.facebook.com

 

 

⑥永井里花菜(江戸川区子ども未来館の指導員)・阿部弥衣子(小学校6年生)

「小学生のわたしが考える「うそ」〜哲学対話をとおして見えたことと、その研究発表〜/2人きりの哲学研究室」

 

⑤でふれた、江戸川区子ども未来館の哲学ゼミのプログラムに参加していた阿部さんが、哲学対話で気になった「うそ」について、続きを考えてみた、ということのプレゼンテーション*6

冊子型の資料が一人一部配布され、リアクションペーパーのような感想を書く紙も渡され、さながら大学の講義をうける気分で、私は聞いていた。

『泣いた赤おに』に出てくる「うそ」の紹介・分析、嘘をつく目的が多様であることの分析、「よいうそ」「悪いうそ」の両方がありそうだということの提示、再び子ども未来館に来ている人たちと哲学対話してみたときのこと、ガリレオのように集団の圧力を受けて嘘をつく例の検討…やり方も内容も多角的に検討されたことがわかる発表だった。

泣いた赤おに|絵本ナビ : 浜田 廣介,梶山 俊夫 みんなの声・通販

60分という枠の中で半分くらいの時間が質疑に当てられたと思う。フロアに20人くらいがいて、内容に関する質問、この活動に関する質問、などなど、多くの質問があった。私は、今後進めるならどの「うそ」について考えたいですか?と質問してみた。たぶん、これ!という明確な答えは返ってこなかったのだけど、阿部さんの答えをゆっくり考える姿勢やそのときの表情が、たまらなくよかったから勝手に満足してしまった。*7

 

 

番外編:飲み会?懇親会?

 

⑥のあと、みんなで会場の現状復帰をして、流れで5323教室に全員再集合して、クロージングが永井さんからあった。

後輩たち何人かと「ご飯食べよー」みたいな話をしつつ、「みんなどっかいくのかなあ?」とかいいつつ、「じゃあ夜来香予約しちゃおう」とかいって、てきとーに18名で予約しちゃうなどして、「いきまーす!」と5323に声をかけて教室を出たら、誰もついてきてなくて(笑)*8、でも途中で自分たちより数倍の規模がある別動隊と合流して、ぼくの名前とか覚えてくれてるんだろうか、みたいに思いながら、「予約してあるんですよー」って言ったらついてきてくれて、20人弱くらいで打ち上げっぽいことができた。なんだか、お祭りである。

毎度、毎度、毎度、毎度、無茶振りな人数に対応してくれる夜来香のリンクを、感謝を込めて貼っておきます。

yeraisyan.owst.jp

普段本当にお話する機会のない方々と交流できて(最初はできなかったけれど、というか最後しかそれはできなかったのだけど)、よかったです。

 

 

全体の感想:はじめて、楽しかった

 

Twitterで述べたとおりなのである。

第二回・第三回と、「学生のための哲学カフェ連絡会」という企画の司会を依頼されるなどしていたし、特に第二回はボランティアのスタッフとして会場設営などしていたし、第三回もなんだかんだ自分の大学が会場という理由で特に依頼されたわけでもないのに会場設営などお手伝いしていて、なんかこう、運営側とも参加者ともつかない立ち位置にいる、と自分で感じていたのだと思う。

それに対して、今回はほんとにただの参加者で、それとして気軽に、なんとなく、参加することができたんだと思っている。再度断っておくと、機関誌の編集も依頼があったわけじゃなく、というか、機関誌を作ること自体、今回の編集委員4人の思いつきから始まったことだし、ほんとにほんとに、自分からやりたいといった事柄なのだ。そして、ぼくが哲学プラクティスに関して携わることの中にはこの種の事柄が少なく、今回ほとんど初めてそのように接してみて、本当に楽しくて、嬉しくてたまらなかったのだった。

ひるがえって、これまでの自分を振り返ったとき、いままでは、ツイートしたとおり、なんらかの依頼があったかどうかに関わらず「何かしないとあの場にはいさせてもらえないという気持ちだった」から、そう行動し、そう感じていたのだと、気づいたのでした。こういうこというと、「だから何も気にせず、自分のやりたいことをやればいいじゃん」っていう人がいるんだけど、何度も言ってるとおり(このブログでは初めて)そういう話じゃなくて、まさに、「依頼されたかどうかに関わらず「何かしないとあの場にはいさせてもらえないという気持ち」」でいるんだってことだから。ほんとに。言葉足らずだけど、そういう人たちにいつか伝わればいいなと思っているよ。強く。

ふらっと訪れて、なんとなく、哲学プラクティスに関わるようになって、ときにわがままに振舞ったり、具合が悪くなったりする弱いぼくを、「仲間」だ、「戦友」だ、といって受け入れてくれる人がいて、あーだこーだ言いながら面倒を見てくれる先生方・先輩方・実践者の方々がいて、連絡会で出会う人がいて、オンラインで出会う人がいて、ぼくは周りの人に恵まれているな、自分だけでは到底見えない景色を見せてもらい続けていて、ありがとうもごめんねも、尽くしきれないなと、今回の連絡会をきっかけに、書いているいまも、なんだか思っています。

 

 

そんなことを夜来香でひそかに思っていたぼくは、次の日の日本哲学ラクティス学会でお話をする人に「明日何話してほしい?」と聞かれて、ほとんど何も考えず「エモい話」と答えていたのでした。

 

今日はここまでです。

*1:と言いつつ、実はぼくの中では繋がっていて、ただ説明しても絶対理解されないな、みたいなのを持ってきてるときもあります。

*2:詳しくは下記リンクにある前期・通年プログラムのPDFを参照。詳しいことは書かれてないのだけど(おい)、当該のプログラムは「子ども哲学~思考力と対話力をみがこう~」というタイトルで、河野哲也教授が講師になっている。

子ども未来館 子どもアカデミー「ゼミ」のごあんない 江戸川区公式ホームページ

*3:よく考えなくても神業である。紹介された数々の本がスーパーのタイムセールのように貸し出されていく様子をぼくは見たことがある。

*4:ここで角田さんのポスターが共有された経緯が説明されていたか忘れたけれど、盛岡さん・木下さん・角田さんを中心に(?)クローズドの勉強会をやっていて、そこでこういう発表形態が決まったんだと思う。ぼくもある時期までは混ぜてもらっていて、角田さんが神戸の方に行くなら、どうやって成果発表しようか、って聞いた記憶がある。

*5:アニマシオンやブックトークは、対象の資料の内容へのアクセスを促し、それに依拠した活動の展開が見込まれる気がする一方で、哲学対話では「テキストからの離陸」のような、別様な活動の展開が期待されている、気がする。でもどう違うんだろう、って気もする。

*6:ゼミの修了者に対して、さらに関心を深めるための「研究室」というサービスがあるようで、その成果発表のようだった。下記リンクのピラミッドの頂点。

子ども未来館 子どもアカデミー 江戸川区公式ホームページ

*7:かくして大人は勝手である。でも、授業とか、学会とかでさえぼくは勝手にこうやって満足している時があるなと思った。なおさら大人は勝手である。なんかこう、最悪なのである。なんか、自分が嫌になる瞬間でもあった。

*8:全体にぼくがやったんじゃないんだけど

哲学プラクティス連絡会に参加した①

youtu.be

「プラネット・ウィズ」は面白い作品だと思う。内容というか筋立てについて考えがいがありそうだし、演出がたぶんぼくの知らないオマージュに溢れているんだろうな、と勝手に思っている。この歌はそれなりに好きなんだけど、あんまりなんも言ってなくて、でもそれなりに好き。でも「正義」って言葉の使い方はひっかかる。

 

 

8月25日(土)に第4回哲学プラクティス連絡会があって、翌26日(日)に日本哲学ラクティス学会第1回大会があった。哲学プラクティス連絡会の方は、「第◯回大会」っていつも数えてなかったっけ。まいっか。

 

最近の報告を含めて、エントリーしておこ、と思った。

今回は哲学プラクティス連絡会の午前中のお話を。

 

 

まず、哲学プラクティス連絡会について。

ぼくが詳述しまくるのもちょっと違う気がしたので、参加した部屋のことを思い出せる限りで残しておく。

とにかく始まる前は、製本版の機関紙44冊という重い荷物を自宅から台車で引いて移動した疲労感でいっぱいいっぱいだった。5323とか広い教室で孤独な時間を過ごしていたと思う。

 

 

①岩瀬優(東京大学大学院)

「学校において哲学対話が可能となる条件を考える―教師権力性をめぐる議論に着目して―」

東京大学大学院教育学研究科の修士1年生によるプレゼンテーション。

問題意識は、生徒と教師が原理的に権威関係にある学校空間で、(教師を含めた)参加者全員が対等である哲学対話が成立するにはどのようなことが必要か、というものだった。(何も見ないで思い出そうとすると)「プロ教師の会」の諏訪哲二という人の議論とそれに対する小玉重夫の応答から、教師が教師の役割を部分的に降りることで、その権威性の一部を手放すことができるんじゃないか、という提案を引き出す、という発表だったと思う。

確かに教師が担う役割は多い。例えば、毎時間生徒に授業する、生活指導をする、部活動を指導する、進路を指導する、遠足を引率する、委員会や生徒会を顧問する、学校を運営する…など。そして、大抵の学校では、「教師が」、それぞれに細かい規則を設けたり(遠足のお菓子は500円まで、とか、授業中に水を飲んではいけません、とか。*1)、細かい判断を下したり(来年の修学旅行の行き先は沖縄じゃなくて東北です、とか、なんとか)している。それはたぶん教師の権威性に基づいているし、生徒に対して権威を見せるという形で教師の権威を強化する営みでもある気がする。だから、その営みを部分的に生徒に明け渡してしまって…という方針である。

でも、全部とは言っていない。というか、全部っていうのは原理的に無理だ、っていうことは問題意識に含まれている気がする。じゃあ、どの部分を明け渡すことが哲学対話のファシリテーションをやりやすくするんだろう。あるいは、「教師」じゃなくて「ファシリテーター*2になるには、どの部分を明け渡すべきなのだろう。確かに、全体的に教師が教師らしくふるまわない学校では、教師ファシリテーターとしてのぼくの発言を、生徒は対等に扱ってくれやすい、という実感はある。でもそれがどのように可能になっているのか、まだあまりよくわからない。

部屋の雰囲気は、普通の学会発表っぽい雰囲気だった。発表者が司会者を兼ねたので、発表者がそういう場を想定してきたんだろうと思う。それがいいのか悪いのかはよくわからなかったけれど、とにかく、一応いまも修士課程にいて、一応いまもP4Cとか哲学教育とかそういうことを研究していることになっている身としては、この場で自分の考えていることを発表しようという気になんらかの意味でなってくれていること自体が嬉しかった。同じ教育学だしいろいろと(NGワード)情報交換したかった。あー、連絡先交換させてもらえばよかった。まだこの時間は眠かったんだよー。

 

 

かえつ有明中・高等学校「知のコードプロジェクト」

「「スパイダー討論」が対話の場を変える~紙と鉛筆だけで熱中する対話がスタート!」

別の研究会でかえつ有明・サイエンス科の「スパイダー討論」のことを伺っていたので、気になって参加してみた。とにかく体験して、コメントをください、という形式のワークショップだったと思う。楽しかった。

まず、ワークショップ主催グループの自己紹介があり、数分の説明があった後、2つのグループで対話(?議論?話?)をしてください、となった。テーマは「自分が生まれてから死ぬまで全ての人生が描かれてる本があったら、あなたはその本を読みますか」というもので、各グループの外側に二人ずつ、主催グループの方が記録を取る係として配置されていた。どのように話を進めるのかは指示されず、グループの中に主催グループの方はいらっしゃらなかったので、どのように話を進めるのかわからないまま、始まることになった。

ぼくのいたグループは、1分くらいの沈黙があって、ぼくが耐えきれなくなって、「これ以上、黙っていると、もっと話せなくなりそうなので…」とかへらへらしながら口火を切ってみた。そこから、ちょっと不自然だったけど議論が始まったんだと思う。あんまり覚えてない。とにかくぼくは、「あったら読む。なぜなら、書いてあったように出来事が進んで行くとき、どうにも興奮すると思うから」と言っていた気がする。そしてそんな人は他にいなくて、変な立場の人として見られていたと思う(ここは本質的じゃない)。

そのあと、グループでいまの対話を配布されたルーブリックに従って評価してください、となった。ルーブリックには評価項目が5つか6つが書かれていた。それらは、事後の説明によれば、目的によって内容を変えればよい、らしい。とにかくまた、グループで司会のいない中で、その観点から対話を振り返ることになった。

次に、外にいた記録係の人が記録(これが発話した順番を蜘蛛の巣形に記録するので「スパイダーネット」なのね)を見せてくれて、内容についてフィードバックもしてくださる、という段階があった。そして、その記録とフィードバックを引き受けて、再びグループで自己評価をした。

授業としてはここまでがパッケージのようで、その後この手法に関する質疑応答があった。まずはもとになってるこれを読め、っていう感じもちょっとあったと思う。 

最高の授業: スパイダー討論が教室を変える

最高の授業: スパイダー討論が教室を変える

 

ぼくが思ったのは、このツールは、その日行われた対話がどのような内容であったか、ということではなく、その日行われた対話の形式がどのようであったか(≒私たちはどのように対話を進めたのか)を振り返ることに使えるものなんだ、ということだった。そして多分、主催グループの方々もそこには同意していたと思う。

ただ、ぼくはやるならもうちょっと考えてから使いたいなという気持ちも同時に持った。つまり、このスパイダーの形式は何を評価するのに使えるのか、ということをもう少し吟味したくなったのだった。それは、「っていうか、他に対話の形式を可視化するツールを知らないかあれなんだけど、何を振り返るにはうってつけで、何を振り返ることはできないのかを自分なりに整理しないと、ルーブリック自分で作れないし…」みたいなちょっと尻込みする気持ちでもあった。でも、出会えたからよかった。必ず使えると思うし、ぼくが哲学対話のコマを持つ中で射程したい事柄と深く関わっていると思う。

 

 

③「これからの哲学プラクティス連絡会について/機関誌『みんなで考えよう』発刊のお知らせなど」

 

全体を集めてやったので、実質的には総会のような集まりになった。

 

本会の事務局を一人でつとめ上げ、この会の司会であった永井さんが、フロアの質問や要望やコメントに対応する形で、結果的にはどのようにこの会が運営されているのかが開かれた形になったと思う。

 

◯永井さんが開示した情報(覚えているだけ)

・プログラムに関しては、公募を全部通す形でやってきた

・事務局は持ち回りでやっていけたらいいなーと思っている

・会場費がタダなのでこの会場でやってます

・小学生、中学生に発表してほしいという要望がきています

・連絡会の参加費は、印刷代、サーバー維持費、受付の人の人件費、会場代を払うことになったときのためのプール金に使われています

・関西のp4cかたろう会と日程が重なったのはほんと偶然で、意図みたいなものはマジでないです。というか、ほとんど会場の都合でこの日程になりました。

 

◯フロアの方からの提案や要望(覚えているだけ)

・可能であれば、いくつか領域ごとのグループを作って、全体のプログラムをディレクションするような仕組みにしたい

・日曜日開催にして欲しい

・公募全スルーは、なんだかんだちょっと心配かも…?

・事務局やり通すの時間も労力も割かないといけないのだから、ちょっとはお金もらえるようにしてもいいのでは…?(ここでみんな拍手)

 

そして、やがて問題になったのが、新設される「日本哲学ラクティス学会」との住み分けをどうするつもりなんですか、ということだった。

永井さんからは、①学会は全く別の団体です、②連絡会で理論研究の発表をしないで欲しいという要望はあります、という話があり、フロアからは「学会では例えば哲学ツーリズムみたいなちょっとした提案やビジネスの提案はできないよね」みたいな話があった。それ以上の話があそこであった記憶はぼくにはなくて、いまになってみるとちょっと心配である。というか、そもそも全く別の団体と言えるの、とか、そうすることにどういう利点があるのか、とか、まだ曖昧になってるポイントがいくつかあるようにも思った。どれくらいきっちり住み分けるべきなのかということ含めて、もうちょっと考えたい気がした。

 

総会的な応答の中で、機関誌の編集委員長が到着し、無事に機関誌についての説明をさせてもらえることになった。編集委員をした私もへらへらと前にいて、なんかちょっとへらへらしゃべった。

説明した事柄としては、基本的には「前回大会で原稿募集などを始めて、様々な人のご協力があり、無事に発行できました。ありがとうございました。」ということと、「今回は無料で発行するということを考えて、製本版は執筆者と図書館にのみ渡し、他の方にはオンライン版でご覧いただく形にしたいと考えています。」ということだったと思う。あと理念とか読んでたかも。ある意味で最も大事だと思った点は、編集委員長の「仕事だと思ってやっていないので、メールとか、いろんな対応が遅くなります。でも必ずことは進めるので信頼して下さい。」という言葉です。えー、割り切ってそういう態度で私もやります。

 

さらに重要なのは、お金出すから製本版欲しいという方がフロアの中にいらっしゃって、ぼくはちょっと読み違えたなと思った。無料でオンラインにすればみんなあんまり本が手に入らなくてもいいって言うかなと雑に考えてました(まさにぼくが)。ごめんなさい。挙手してもらったら、欲しい方はかなりの数いらっしゃって、えー、大変なことになったな、と思っています。

下記リンクのフォームから購入希望を申し込めます。参加された方は第4回連絡会の感想とともにお申し込みください。

で、具体的な金額についてなど、いま試算したデータがあったりするのですが、どうやってお金を回収させていただくかも決まっていないので、ちょっと具体的な金額はまだなんとも言えません。追ってまた公的に連絡をさせていただくことになると思います。

オンライン版の公開含め、何かが(って完全に編集委員たちの別の「仕事」や個人的な事情が)落ち着いたら進むと思うので、しばしお待ちください。事は進めます。そういうテンポで哲学プラクティスに臨んでいない方にはとくに、本当にご迷惑おかけします。

philosophicalpractice.jp

 

※2018/9/13 追記

 『みんなで考えよう』の創刊号、オンライン公開されました。

philosophicalpractice.jp

 

※2018/9/26 追記 

『みんなで考えよう』の創刊号オンライン版のURLが変更されています。

philosophicalpractice.jp

プレビュー表示にすると全部一緒になっちゃうけど、URL微妙に違ってます!リンク貼る方、(いるかどうかわかんないけど)オンライン上のデータとして参照する方、特にご注意ください。

 

 

今日はここまで。

*1:マジで水飲まないは教壇に立つときぼくが厳しいのでやめてほしい、と切実に思っています。ほんとどの学校も授業中飲み物ダメでしんどいです。体質なのかな。緊張すると水が欲しくなるのかな。とにかく10分に一回くらい給水したい。

*2:瑣末なことかもしれないけれど、よく英語のP4C関係の文献では"teacher-facillitator"っていう表記があって、ぼくはそれを「教師ファシリテーター」ってたぶんほとんど勝手に訳している。一方で、「教師の権威」と「ファシリテーターの権威」を分けて考える場合もある、というか、普通分けて考えている気がして、例えばクラス担任がファシリテーターをつとめたとき、その場を取り持ってる人のことをなんと呼べばよいのだろう。ってなってる。

リズと青い鳥の感想と近況報告

連休ですね。お久しぶりでございます。

※今日は気持ち悪いくらい語りますが、誰に見られるかわかったもんじゃないので先に言っておくと、これが普段通りの私です。

 

今回はネタバレがあります。背景色と文字色を一致させたり、空白で埋め尽くしたりするのも、なんだかなーと思うので、頑張って近況報告でつないでみます。

 

投稿しないうちに怒涛かつ劇的な一年ちょっとが過ぎ、教育学と哲学のチベットにいる院生生活に加え、教科外のヒジョウキンとしての2つの中学校での生活が並行して始まってしまいました。

教育学と哲学のチベットという言い方は、いま思いついたのだけど、実家のある地区が一部の人々から”横浜のチベット”と呼ばれている(揶揄されている?)ことに由来します。

 

年度明けってほんとバカみたいに忙しくなるんだなあと。ひと段落して思う次第で、でもまだまだ書類三昧です。毎年こうなのか、というか、おとなって常にこうなのか…()

 

なお、某校の初回授業は半ナマ鳥レバーにあたっておやすみいたしました。どこへ行ってもネタにしているのであれですし、本来は「あーもうこういう危険な食べ物はやめよう」っていうべきなのかもしれないけれど、もう一回食えって言われたら喜んで食べると思う…めっちゃ美味しかった…。。

 

 

その一回ずれ込んでしまった初回授業では、ぼくの自己紹介もしないとなと思ったので、

「わたしの「人柄」を明らかにする」という目的で、いっぱい質問をしてください。

・基本何でも答えますので、いろいろな角度から、なんでも訊いてください。

・マジで答えたくない質問には「答えたくない」と言います。

というコーナーを設けました。

「給料はいくらですか?」と「彼女/母親の本名は?」という質問以外にはかなり真面目に答えたつもりです。相変わらずオタクばれすることへの抵抗は一切ないので、まあバレるわけですが、「公開日にリズと青い鳥を見にいく決心をした」と言ったら、「私はすでに試写会に行って来ました」という声がぼそっとどっかから聞こえて、ちょっとびっくりしたりしたのでした。いまのところそんな感じでのんびり働いています(?)

 

 

しかしやっぱり、哲学に関する教育をほとんど受けてない自分が、哲学とは何か、とか哲学対話とは何か、とかいうことを説明することにはだいぶ限界を感じてもいます。

恩師にも言われたけど、「教壇に立ったときの方が勉強したくなる」んだなぁ。

 

 

(これ、どこまでいけばネタバレ嫌な人がネタバレ部分を読まずに済むんだ!?)

 

  

主題歌、作品とは別にさわやかでいいですよねー。

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さて、本題です。

 

sorryweareclosed.hatenablog.com

これを書いた友人に対して思うことがあり、いろいろと話していたら書きたくなったのでした。ゴルフクラブありがとうございました。)

 

結論から言うと、

①みぞれと希美の関係を描くってのが本筋なんだろうけども、その筋で見るとなんか微妙っていう評価。

②だけど、特にOP部分なんかはそうだけど、学校と学校生活の描き方がとても繊細で、すき。

という感じの感想になりました。

 

 

  • ①について

微妙っていう評価なのは、スローテンポでじっくりゆっくり、こだわってみぞれと希美の関係性の変化を描こうとしたのは伝わるんだけど、端的に目新しさがないと感じたから。良くも悪くも裏切られない。劇場で見たとき周りの知らない人たち(大学生カップルみたいなのが多かったのは意外でした。ぼくと似たような層の人々なんだろうな。)はクライマックスでみんな泣いてたけど、全然泣けない。TV版2期からこの帰結は予想通りだよー。と。それだけです。

だから、希美が悪いとも思ってないし(そういう感想が出てくるのは、この作品がみぞれ視点を中心に描かれていて、そこに乗っかってしか見てないからでしょと言いたくなる)、みぞれの気持ちが重たすぎてキモいとかも思ってないし(あれくらいありふれてるよと言いたくなる)、最初からすれ違っていたことに気づいてなかった二人と周りがおバカじゃんともさして思ってないし(人生そんなことばっかりだよ)、ましてや作品全体に漂う女子女子した関係がキモいとも全然思ってない。目新しくないということ以外に文句なし。問題なし、問題なし!オールクリアです。

 

 

ただでも、意外と同じことを思っている人は少なそうだなーと思う。

 

 

  • ②について

いくつかポイントはあるのですが。

 

まず、ここ数年いろいろな学校に関わって仕事なり研究なりしているからかもしれない、というか、確実にそうなんだけど、学校の描き方に感動した。

京アニのアニメは作品ごと(スタッフごと)に程度の差はあれど、ものすごく物理的な空間の描き方にこだわっていると思うわけです。緻密に緻密に空間を描いた後に、その中で人の動きを描いている感じがする、と。物理的な空間の中で、人々が動いて、いろいろな出来事が起こっているよ、ということが、しみじみ伝わって来る気がする。

 

なんだろうな、わからなきゃこれは実際見て感じてくれという感じ。ほんとすごい。でもね、ここだけだとこの作品特有の凄みとしては語れないんだ。

 

 *

 

じゃあ「学校の描き方」っていうことでなにが一番言いたいかっていうと、そこに関わっている人の人数分のリアリティがそこで同時に起こってぶつかってるってことを上手く描写できているからすごい、ということなわけです。

例えば、多くの人が言及している最初の登校シーン。みぞれが階段に座って、足音に耳をすませて、歩いてくる人が希美かそうじゃないかを、希美で来ることを期待しながら待ってる。希美の足音を聴き分けたみぞれは、それとわかった途端にそわそわしだす(よく覚えてないけど、立ち上がって、歩いて来る希美のところまでいくかどうか迷う描写があったと思う)。挨拶をして合流した希美は、みぞれがそうやって待っていることを知らないし、気にしていない。

ここで描かれているのは、みぞれは音によって人を聴き分けているという、彼女の世界観だと思う。そして、みぞれにとって朝練のある登校日の朝はああやって過ごすことが日常である一方、希美には希美の日常があって、みぞれと同じようには過ごしていない、ということも同時に描かれている。

これだけだと、何だお前も百合オタクじゃないかと言われそうなので(実際そうかもしれないけど)、もう一個例を挙げます。

高坂麗奈が、忽然と「先輩、希美先輩と相性悪くないですか」とツッコミを入れるシーン。(私が愛して止まない)デカリボン先輩が「あんた頭おかしいんじゃないの」みたいなツッコミを麗奈に対して入れてたのも笑いそうになっちゃったんだけど、でもこのシーンはすごい重要だと思うのね。TV版1期・2期では、吹奏楽部で”ジャンプ的に”「うまくなりたい」「上手くなって特別になりたい」「全国に出て金賞取りたい(そしてそのためならおよそどんな手段も厭わない)」という気持ちでいる黄前久美子高坂麗奈を軸にストーリーが展開していきました。そこでは、2期前半でみぞれと希美の関係が問題になる回があり、久美子やデカリボン先輩が(あくまで)コンクールで勝つために、この部の中の問題として、二人の関係に介入していくその様子が描かれていたと思う、と。その一年度後を描いたのがこの作品だったわけだけれども、今回はみぞれ視点であるからして、みぞれと希美の関係の見え方も扱い方も当然違って来るわけで、ストーリー自体はそこを軸に進むのだが、しかしやっぱり一年前と同じ視点で二人を見ている人はいるぞ、ということが、高坂麗奈のツッコミで示されている、と思うのです。

新キャラ梨々花も、みぞれと同パートの後輩たちも、それぞれに違う仕方で部活動に参加して、やはりみぞれの動向を心配している。

このそれぞれ見え方(リアリティと呼んだり、世界観と呼んだりしてるけども)の違いが、明確にわかるように描かれているから、この作品はすごい、と言いたい。そしてこの違いは、TV版あってこそ際立つものだと思う。作品が進んで行くテンポの違いや、みぞれと希美のストーリーコンクールとはほぼ無関係に進んでいくことだとか、TV版を念頭に置きながら対比してこの作品を見ることで、各キャラのリアリティの違いが見えて来るんであって、だからこの物語がユーフォニアムである必要性」はとても感じる、と言いたいのだ。

 

 

したがって、①ストーリー自体は微妙だけど、②描き方はすごくすき、というのが私の感想なのでした。

ぜんぜん語りつくせてないけど、また思い出したら書こう。

こっちも感想書かないとなあ。よっぽどこっちの方が哲学っぽいよん。

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一昨日と昨日

サークルの同期と卒業旅行をして、帰ってきて、勉強して、ゼミの出張に行って、帰ってきて、勉強して、そしたらその日は来た。前日、午後から始まる研究会に向かう途中、「そうか、明日は卒業式なんだあ」と思った。

 

本学の卒業式は学部ごとに二日間、異なる時間帯に行われる。一日目の最初に自分の卒業式があって、そのあとは書類を受け取って、およそ三人くらいしかいないと思われる学科の友人や、いろいろなサークルの同期と落ち合って話したり、写真を撮ったり、食事したりした。二日目も図書館で勉強しながら、呼ばれたら落ち合って写真を撮ったり、昼飯食いがてら部室で同期と話したり、また図書館へ戻って勉強したり、そんな感じだ。正直、自分の卒業式という感じは受けなかった。

 

…と書くのだけど、ゼミとかサークルなんかには「追い出しコンパ」や「送別会」みたいなものがあるから、実は卒業式が別れになる人は少ない。そもそも、たぶん卒業式の日にわざわざ会って…なんて人は普段から会っている人たちである。

 

「自分の卒業式感」のなさは同じ大学にまたすぐ入学するからである。二週間経たないうちにまた入学式だ(たぶん会場は違うけど)。同じ場所に通い、同じ図書館を利用し、同じ教室で勉強して、同じ部室で休憩するのだろう。それなのに「学部は卒業ですよ」なんて言われても…という感じである。学部変わるったってもう変わってたようなもんだし?

 

**

 

夥しい数の袴姿の人、スーツ姿の人が正門に並んでいる。11号館の前でよくわかんないけどグッズを売っている。知り合いが何だか知らんが胴上げされている?
みんなにとっては間違いなく何がしかの大きな意味のある儀式なんだなあ。…考えてみれば当然である。多くの人にとっては、この日が小学校からの16年間かそれ以上の学校教育の期間を終えて社会に出るタイミングを意味するからだ。

 

卒業式の模様は8号館の「保護者向け会場」で中継されていたようだった。メディアイベントと化した卒業式。門出だよ。めでたい日だよ。ほらほらハレルヤだよ。はい次、校歌歌って。

 

将来にわたってかどうかはともかく、少なくともこの一週間は、いや、ちょっと自信がないのでその瞬間は、周りの人がぼくと撮りたがる写真にも、他のときに一緒に撮った写真とは別の意味があるのだろう。そんなことを思いながら写真を撮ったり、撮られたり。「葬式鉄しなきゃ」とか言いながら突然部室棟の遠くから望遠で部室内をすっぱ抜こうとする友人に付き合ったり…。

集合的記憶となるだろう卒業式。いろんなバカやったね。楽しかったね。さみしくなるね。

 

圧倒的にわたしの周りから知り合いがいなくなるということ、あなたに会って話すのが日常ではなくなること、あなたにもわたしにも別々の次の日常が待っているだろうこと。考えてみれば、常にあたりまえのことであるはずなんだけどこういうときにしか考えないよね。そして、面倒な儀式にも行ってみるとこういうことが隠れていて、うわあってなる。

時間の不可逆性と一回性を突きつけられるぼく。あの人は次どこへ行くのかなあ、もう会わなくなるのかなあ…もっと話しておけばよかったなあ。