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ゔぁみゅーだとらいあんぐる

雑記帳です。ほんとうにノリと勢いだけで何でも書きます。タイトルは作った翌日に先輩につけてもらいました。

冗長に、言い訳しながら、発表する自分について

卒論ゼミでの最後の発表が終わった。卒論の内容を7、8分ずつ話して質問を受けるという場だった。

 

ぼくの発表についた(卒論それ自体ではなく、発表)コメントは次のようなものである。

・頭のいい人が喋っている
・自己卑下が多い
・ウザい
・無駄にハードルを下げている

 

そう見えるんだろうなと思う。

 

冒頭、「このゼミで一番つまらない発表だからトイレに行くなり、お茶飲むなり、リラックスしていてください」と前置き、「出来も自分では満足していない」などと言いながら、卒論の構造を説明し、調査対象となった「教室での哲学対話」について説明し、「やっぱりうまくいかなかった」「レジュメに書いてあるから、興味ある人はお家で適当に読んでください」などと言って考察部分の紹介を端折った。ぼくは、他の人に比べてこういうことをしがちだ。

 

みんなはいつだってちゃんと自分の書いたものや取ってきたデータについて説明していて、ほんとうにえらいと思う。

 

レジュメを作るとき、そんなことを自分が言うだなんて全く想像していない。いつも忘れたかのようにレジュメを一から読み上げるんだくらいの気持ちで作っている。今回も実はそうだった。当日の朝、電車の中で赤を入れて「ここはこうやって飛ばして、ここを重点的に説明して、哲学対話なんて初めての人が多いからここは押さえないと…」なんていう作業もしている。でも、みんなの発表を聞いているとそんなことはほんとうにどうでもよくなる。

 

自分は満足していないし、ましてや誰かを唸らせる何かを書けたわけでも、誰かを納得させられるような何かを言いたいのでもない。一応、限られた時間の中でも「何か読んだ人にとって意味のあるものを」と意気込んで書いていて、でもぼくの中ではそこに至らないのだ。このことをまず伝えなければならない、と思ってしまう。

 

それは何かのハードルを下げているのだろうか。

 

なんか、ぼくのある種のアイデンティティを守るためのパフォーマンスである気はする。頭のいい人としてゼミにいたいのかもしれない。そうしたときウザがられるのは、なんとなくわかる。でも、そんなこと考えながら話してるわけじゃない。

 

ただ、あの場で何かを喋ろうとするとそうなってしまうのだ。

 

実習生として教壇に立ったときも、企画で司会をやらせていただいたときも、同じような感じが漂っていた気がする。ああいう仕方以外の「なにか」の崩し方をぼくは知らないのかもしれない。

 

どういうことなんだろう…。