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ゔぁみゅーだとらいあんぐる

雑記帳です。ほんとうにノリと勢いだけで何でも書きます。タイトルは作った翌日に先輩につけてもらいました。

メタ的な話???〜渋谷らくごと飲み会をふまえて(みたい)〜

 

2月11日(土)、14:00〜のしぶらくに行ったのです。神田松之烝さんを除いて生では初めて、聴かせていただきました。

 

ろっくんさんのマクラと棟梁の滑舌で笑わせてもらい、お馴染みの濃い演出の松之烝さん、「落語っぽい講談」で大笑い、中入り挟んで左談次さんの「宿屋の富」(上方の「高津の富」じゃなくて、江戸落語としての富噺、初めて聴いて面白かったです。もともとどっちの話だったのかとか気になるけど。)、春蝶さんのだいぶさわやかな(!)「芝浜」…相変わらず流れは完璧で、すごいなあ。キュレーターの腕前なのかなあ、噺家のみなさんの腕前でもあるよなあ、なんて思いつつ。

 

そのあとは、半期お仕事(?)でご一緒させていただいたみなさんと反省会という名の飲み会。こっちも飲み会とは言いつつ(そのおふざけ感というか、緩い感じもありつつ)、いつもちゃんとした論点があがるから楽しいわけです。

…それで、そんな1日を過ごして、雑記としてちょっと書きたくなったことがあった(ということにしてみて、)ので、ノリと勢いで黒霧島に酔っぱらいながら書きます。

 

 

時系列無視して飲み会の話からします。その飲み会は、いや、その人たちで集まったらそういう会になるよねーと分かっていながら、しかしやはりぼくにとっては少し特殊な場で、ちゃんと議論になる時間帯があるんですね。しかも突然始まるの。新婚さんたちののろけなのかなんなのかわかんない話含めて、勉強になるし、楽しい。

 

突然始まった話の中には「誕生の哲学」「死の哲学」「生成と消滅の哲学」はあるのに「出産の哲学」がないよね、誰かやれよ、みたいな話もありつつ、一番印象的だったのは「メタ認知は救いになりうるか」というようなことを話した時間でした。

 

メタ的に何かを把握することって、自分の(行為の)偶有性に気づくことに繋がるよね、と。それって「そっか、今とは違う別の可能性もあるんだ!」という救いになりうる。でも一方で「そっか、今とは違う別の可能性もあるけど、ぼくはそうはできない(なれない)よね」という悲しみつらみにもなりうるよねって話(だと理解したよ!)。要はメタ認知ってすごいよく語られるけどそんなにいいこと?特に学習っていう観点からはめちゃくちゃいいこととして説明されるけど、日常的な例を考えると地獄になるときない?って話。だったような。はい。

 

  • 松之烝さんの大工調べと芝浜への言及

 

さて、話は戻ってしぶらく。二番目に出てきた松之烝さんが枕の中でかなり早い段階で言及したのは「今日トリの春蝶さんは、芝浜やるみたい」という旨のことでした。そのあと三番目の左談次さんが「ぼくは結構気にするタイプなんですよ、こういうの」って出だしで笑わせてもらったり、ぼくとしてはとても面白い(マジで爆笑した)流れでした。

 

でもまず、ぼくは今日落語聴くの初めてな人を連れて行ったので、ちょっとそこは、ある種のリテラシーを求めるユーモアが仕掛けられることで疎外感を感じないかどうか心配したところでした。でもこれが言いたいことじゃなくて。

松乃烝さんの、「トリは芝浜ですから」という言及、それから一番目のろっくんの「大工調べ」を参照するような言及(「隣の長屋では棟梁が大家に啖呵切ってんだ」)は、いや寄席の世界ではよくあることと言い条、すごいメタ的な言及だよなあと感じました。自分の出番前後の演目を気にするということは、このしぶらくのこの回、その場について考えて発言するということに他ならないから。そして「このあと左談次師匠が芝浜で重ねてきたらびっくりですよね」という発言含め、それがちゃんと笑いに昇華するって実は日常的にもやってる気がするし、しかしやっぱり技巧的にそれをやってのけること含めてすごいなと思った次第です。

 

でも、なんというか松乃烝師は「大工調べ」を参照するとき、直前の一瞬すごいニヤッとしたので、そのニヤケの謎解き感もあって、うん、すごい。引き込まれちゃうよそんなことされたら。

 

  • 春蝶さんの芝浜

 

さて、そのトリの春蝶さんの芝浜。「五人の男女への返答」ということで始まった、これまでとは一線を画する設定の(もはや新作なんじゃないかってくらい)芝浜は、泣けるし笑えるし最高でした。初めて落語聴く人を連れてってよかったよかったって思いましたね。はい。

 

それで、「これまでとは一線を画する設定」の中身は言ってしまうとつまらないから言わないけど、自分のパフォーマンスに対する「五人の男女」のコメントへの「返答」という仕方で、芝浜の設定を自分なりに再構成したこれから行うパフォーマンスについて、前もって説明する、という行為自体も、どこかメタ的な認識が関わっている気がする。つまり、これまで自分がどのような経緯を辿ってきたのか、これから数十分に渡って自分は何をするのか、といったことを俯瞰できないとそのような説明、というか宣言はできないはずだからだ。

 

何かがなんらかの意味で磨かれるとき(洗練されるとき)ってこういうことが起きてるんじゃないか、と思わせるような事態ではあると思うんですよね。でもどこまで一般化できるのかはやっぱりよくわからない。

 

このあたり、ぼくの以前のエントリー「冗長に、言い訳しながら、発表する自分について - ゔぁみゅーだとらいあんぐる」を含めて、一体なんなのか、という気がして興味深い。そもそも、春蝶さんにしたって、事前にそんなこと言わなくてもよかったのかもしれないじゃない?でも、それがユーモアになるときもあるし、ユーモアにならなくてうざったい長ったらしいことになるときもあるし…。

 

…という話を「君がTwitterに今日の飲み会楽しかったか投稿しないと気になっちゃうよね」という話を受けて(師匠たちに届かないかな、届かないよな、とか思いながら)書いてみました。

 

 

…とか書くと、これは面白いということになるのか?もうこの辺になるとわかんないぞ?

 

 

……とか書くと……

 

 

 

 

…さて、このあともメタ認知をめぐるぼくの思索はなんとなく続いていき、どれだけぼくがそのことによって悲しみを背負うことになるのか気になるところではありますが、今日のところはこの辺りで失礼させていただきます。(深いお辞儀)