ゔぁみゅーだとらいあんぐる

雑記帳です。ほんとうにノリと勢いだけで何でも書きます。タイトルは作った翌日に先輩につけてもらいました。

intermission 01 : あんまり言葉にできてない、という不安

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YouTubeでの公開は2011年になってるけど、ニコ動の方で公開されたのは2010年の6月だったと思う。高校の3階の校舎の、窓辺のロッカーに座って、きれいな冬晴れの空を見ながら、この曲を聴きながらたそがれていた記憶が、聴くたびに思い出される。

ぼくの音楽経験は、大抵、それを集中的に聞いていた時期の印象的な風景や気分と同時に思い出される。いまお気に入りの曲たちは、2年後どういう風に聴かれ、思い出されるのだろう。

 

 

二学期の授業がはじまった。といっても、関わっている学校全てが9月の中旬〜後半を学校祭や体育祭などの期間としている関係もあり、ぼくのお仕事は、9月前半の1、2回だけである。夏休み明けということもあるから、いきなりフルスピードで集中して「みんなで考える」ことに導ける自信もなく、一校は協議の末コミュニティボール作り、もう一校は1学期末のアンケートへのお返事と質問ゲームをするということになった。

 

 

特にテーマの指定もなく募集した問いからクラスごとに選んだ問いを対話する、という形の授業を3回やったあとに行ったアンケートでは、概ね次の4つのことを聞いた。

 

①あなたにとって「哲学対話」はどのような時間ですか?

②昨年度の哲学対話と比べて変化したことはなんですか?*1

③この時間ががあなたにとって意味のある時間になるために、何が変わればいいと思いますか?

 ④ほかに伝えておきたいこと(要望、感想、質問とか)があれば書いてください。

 

さて、やってみての感想。真面目な回答も不真面目な回答もごちゃまぜになってやってくるアンケートに向き合うのは、楽しくもあり、しかしかなりしんどい作業でもあった。元気じゃないとできない、というのは、たぶんその通りだと思った。不真面目な回答はともかく、真面目な回答を一個一個受けとめるのは、難しいことなように思われた。

真面目な回答として、私への、教室への、学校への不満がにじみ出るもの、あるいは直接批判するもの、これまた真面目な回答として、私を、教室を、学校を全肯定してくるもの、理由はわからないけれどぼく個人を応援してくれている回答、趣味という接点でしかぼく(とぼくが持っている授業)に関心を抱かない回答…などなど、それぞれにそれぞれの色のついた世界がある。なんかこう、「2001年宇宙の旅」の'Star Gate'(船長がモノリスに吸い込まれていく?その瞬間)のシーンを見ているみたいな、素晴らしい出会いばかりなのにどこか気色悪いような、受け止めきれないような、あまりに揺さぶられて酔ってしまうような、そんな気分になった(伝わらない)。とりあえず読んでも超人にならないことはわかっている。超人にはなれないけれど、ぼくが、授業を振り返り、生徒の姿を振り返り、次の学期(といっても数回の授業だけれど)をどういったことのために共に過ごせばよいか、考える十分な材料になった。

 

真面目な回答も不真面目な回答も、あるいはそうでない回答も、ありがとうありがとう。みんな生きているだけでえらいのに学校に来てこういうことに付き合ってくれる。ほんとうにえらい。学校で言える機会はほんとうにないけれど(突然言うのはやっぱり変なのだ)。だからもう一回ありがとう(伝わるのかわかんないけど)。

 

反省したこともある。配布時、ぼくはふざけた回答をしてくれていい、ただし、ふざけるなら笑わせてほしい、と言う。どういう形でもいいから笑わせるか考えさせるかしてほしい。なぜだかそんな回答を期待している。あまり理由はないのである。こうして、大人というのは傲慢なのである。私も、御多分に洩れず、そういう部分だけは、大人の一人になりつつある。たぶん、「あーはいはい、こういうこと書けばいいんでしょ、書いてやったから出すね」みたいな態度と、どう付き合っていったらいいのかわからないというだけだと思う。自分も生徒・学生であるときにはそういう態度取ることあるのにねえ。やっぱり傲慢なのである。反省。反省。

 

 

特に③④の回答の中で目立ったのは「先生がもっと進行する」「先生がちゃんと注意してほしい」「授業なんだからもっとやる気出して」みたいなタイプの回答である。

ぼくのやる気が伝わらないのは、それはそれとしてぼくにとって悲しいことである。ぼくが普段出している表情が理解されない(=ずっと死んだ顔しているように思われている)問題に似ている。

で、それはそれとして、こうした回答*2から、かなーり極端に前提を読み込もうとすると、次のことを読み込めるように思う。

 

・授業は、先生が進行する場である

・その進行の仕方は、先生しか知らないものである

・どうしてそのような進行をするのか(授業の進め方の背後にある目的)ということも、先生しか知らないものである

・その目的は、生徒にとって(なんらかの意味で)教育的に有意義なものなければならない

・どのように授業が進むことが望ましいかを知っているのは先生だけなので、進行を妨げることが起こらないよう配慮する(例:他の生徒の邪魔をする生徒を注意する)のも先生の義務の一つである

・先生が、いかなる仕方でも授業の進行を放棄したり、進行のために必要な配慮を怠ったりした場合、それは先生のやる気のなさの現れである

 

いや、こんなことは書いてないし、考えてもないとは思うのだけど、でも、なんというかな、授業ってこういうもんでしょ!お前もわかってんだろ、そろそろちゃんとやれよ!(怒)みたいなことを言われた気になったのです。

 

このことを意識しながら夏休み明けの授業では、明確に、「ぼくがいないと考えられない人になってほしくない」と言ってみました。応答するなら、これに尽きるよな、と思えたのでした。ぼくは教室へ行って、一緒に考えることをするし、一緒に考えるための工夫も考えるし、一緒に考えるための時間の使い方も考えてくるし、一緒に考えようって啖呵切る人になるし、他の人の邪魔してる人がいたら「それ一緒に考える人としてふさわしくないよね!」みたいな注意さえするわけだけど、それでいて、矛盾するかもしれないけれど、ぼく(のような存在≒先生)がいないと問いを見つけられなかったり、考えを進められなかったり、対話できなかったり、そういう人になってほしくないのだ。でも、矛盾しないのかなあ、などと不安になったり。んーどうなんだろう。

ぼくのこうした態度には、「普通の教科の授業」との差別化の意識も働いていると思う。あまりうまく言えないけれど、先生しか知らない知識を先生のペースで知っていくという作業だけをしていていいようには、やっぱり思えないのである。みずから「考える」ということを実感するためには、(少なくとも学校的に)決められたペースやリズムからは外れたコミュニケーションの中で「考える」ことを経験しないとなんじゃないか、となぜだか思っている。うーん。なんだかよくわからない。

ぼくは哲学対話に何を背負わせようとしていて、どういう哲学対話をしたいと思っているのだろうか。あんまり言葉にできているように思えない。のである。でもずっと考えている。たぶんまた、授業する中で進む考えもあるし、そのとき見つかる言葉もあるんだろうな。

 

 

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*1:このアンケートの対象者は、全員が去年15回の「哲学対話」の授業を経験している

*2:一応念のために書いておくと、上記3つは回答の抜粋ではありません。シンプルに書いてくれものもあれば、かなり詳しく思いの丈を述べてくれたものまでありました。