ゔぁみゅーだとらいあんぐる

雑記帳です。ほんとうにノリと勢いだけで何でも書きます。タイトルは作った翌日に先輩につけてもらいました。

さろん哲学さんの『みんなで考えよう』合評会に参加した

youtu.be

ぼくは、冨田勲という人が日本の音楽界に与えた影響であったり、シンセサイザーが音響に関してどのような変化をもたらしたのか、それが当時どのくらいのインパクトだったのか、そういうことを知らない。いろんなところで言及されてるのは見聞きするけれど。

でもこの曲は知っているし、案外電子的な音楽というのか、こういう音色だったり、FM音源だったり、MIDI音源だったり、の音色は好きだ。音色から自分の知らないそう遠くない過去を想像しながら聞いていたりするのだろうけど、でもそれとは別に、単純にこういう音色が好きだな、と思ったりもする。そういう単純な感覚、意外と忘れがちだなあと思ったり思わなかったり。

 

 

あ、よく冒頭と最後に楽曲の動画を張りますが、すべてに精通してるわけじゃないです。まくらですからね。気分ですよ。

 

 

長く哲学カフェの実践を続けている「さろん哲学」さん。

http://salon-public.com/

『みんなで考えよう 創刊号』の合評会という企画が立ち上がっていたので、参加しましたの報告です。*1

 

参加しようと思ったのは、企画者の方のアツさを連絡会当日に感じたこと(お話しさせていただいて)、編集委員からは他に参加しなさそうだなと感じたこと(なんとなく)、もあるけどなにより、ほんとうに珠玉の原稿が集まったなという感覚があったからです。

これまでにない目次・内容を思いつきで期待したのはこっちだけど、執筆者の方がほんとう実現していただいたな、みたいな。投げかけてみるもんだな、というと、ちょっと偉そうにみえるかもですけど、ぼく自身、編集作業しているうちにどんどんモチベーションが上がる感じがあって、すごくよい経験をさせていただいたなと思っているのです。ぼくは。

そんなわけで、本誌にガチ恋なので*2、イベントあるなら行かなきゃ!みたいなテンションが原点です。

 

 

私を含めて、11名の参加者が渋谷のカフェの会議室に集まったのだけど、もうこの時点で感動ものである。初めて会う人ばっかり。ぼくがいかに狭い世間に生きているのかを改めて思う。ある程度自覚的でいるつもりなんですけどね。でも多分甘いんだわ。

話はそれるけれど、ぼくと哲学対話なるものの関係は不思議だ。最初は人に誘われて、そこへ行ってみて、そこでさらに勧められた授業や場に出て、そこでさらに…としている中で、いつの間にかいまの状態に…という感じなのだけれど、その中で、ぼくの世間が広がったというよりは(もちろんそういう時期もあったけれど)、世間が狭いと思わされる経験が多かったからだ。

こういうことを言うと、「最近の若いもん(別のこの主語じゃなくていいんだけど、多分「大学院生」でも「教員」でも、ぼくの個人名でもいいんだろうけども。)は、外に出て人脈も視野も広げる気がないから…」という(誰のでもない、あるいは自分の)声が聞こえてくる気がする。just 気がする。ごめんなさいごめんなさいの気持ちとほっといてくれーたのむーの気持ち。でもどこか正論かのように自分の中に響くとこはあって、具体的にどうしたらいいんだろう、という感じにもなるよねー。

 

なんの話やねん。

 

 

普段調子いいときは、内的にはこんな感じで過ごしています。

自分でつっこめるときは割と調子がいい気がする。

 

 

さて、合評会は、企画者の方からどう進めるかから話を進めてくださり、それがまた心地よいというか、安心感。結果決まった進め方は次の通り。

・全17本の原稿について、一人でも扱いたいと希望のあった原稿を扱う。

・それぞれの原稿について、担当の評者を決め、準備時間(20分程度)の間に原稿の内容と寸評を用意する。

・評者によるまとめ・寸評(3分)→全体での議論(10分)→執筆者がいるものについては応答(2分程度)という流れで進める。

この会のためにとった時間が3時間強ほどだったということもあり、参加者から希望のあった15本全部を扱い切ることはできなかったのだけれど、どの原稿に関する議論も、少なくともぼくにとっては、新鮮だったように思う。

 

 

結果的に10本かそれくらいに関してそれぞれ議論したのでした。ここで全部の議論を追うことはできないので(ぼくの記憶能力的にも)、印象的だったところを二つ。

 

 

一つは、水谷みつるさんの「哲学カウンセリング・トレーニング体験記―V・チェルネンコ氏と同僚たちとの1年7か月を振り返って―」*3についての議論から出てきた論点。担当の評者の方が言ったのか、全体での議論で言われたのか、そもそも一人の方が言ったのか忘れたけど、次のような感想があったと記憶している。

ここで紹介されているチェルネンコ氏(や、ブルニフィエ氏)のカウンセリングは、「なぜそんな長い問いを立てるのか」、「いまの答えは問いに答えているのか」という問い方からして新鮮で、単に「うんうんと聞く」だけでない、ましてや「うんうんと聞く」ことは優先されない場であるように思える、と。自分(たち)の知っている哲学カフェの場と比べて、哲学の技術的な部分にこだわっている感じや、発言・考えの論理的な構造にアプローチすることを目指している感じが、「強そう」に思える、と。

最後には「これってほんとうにカウンセリングなの?(クライエントの悩み、不安みたいなものは解決・解消するものなの?)」という問いも出てきていたように思う。

ぼくも確かに、哲学プラクティス的な場に参加するときに、どれくらい気を使わずに問いを発してよいか、みたいなことはいつも考えているな、と思った。そしてそれは、例えばある人の発言に、「なぜ?」「こういう場合もあるのでは?」と訊くことが、ある場合にはケアとみなされ、ある場合には単に傷つける行為だとみなされることがある、ということを知っている(経験してきた)からだと思う。

具体的に想像してみると、質問する人/される人のその日その場での振る舞い(言い方や表情)とか、事前の説明(主催者やファシリの場作りの方向性?)とか、それぞれの文脈に埋め込まれた問題はたくさんあるだろう。そして、実践的には、(少なくとも自分がほんとうにうまく集中できているときには、)その場で、その人の雰囲気みたいなものを感じながら、その人の人格の一部みたいなところも発言から想像したりしながら、質問したりしなかったり、言い方を変えたり、一呼吸入れてから質問したり、しているんだろうと思う。

ぼくは、それぞれの場でできることとできないことがある、と思っている。ので、「強そう」なカウンセリングの場では、「強そう」だからできることがあるんだろうと思っている。でも、それってなんだろう。哲学カウンセリング、この夏以降ぼくの周りでは勉強する人が増えた感覚があるけれど、どうなんですかね。時間できたらぼくも読みますけど、例えば心理カウンセリングと比べて、明らかに違う成果とかはありうるんでしょうか。

それから、少し関わりつつ、全体での議論の後にぽろっと出てきた「チェルネンコさんみたいじゃない哲学カウンセリングもあるんですか?」という問いも大事だと思う。なんかいつかどっかで、なんとなく傾向の違いみたいなのがあるよーという話を聞いた気がします、という話を勝手にしてしまったけれど、全然不勉強です(とも言った)。

 

 

もう一つ興味深かったのは、しばたはるさんの「対話と圧力、その来歴」*4に関する議論で上がってきた、「この原稿はどこがどういうふうに哲学プラクティスなのか?」という問い。

たしかに。ニュースを見た個人のエッセイが哲学プラクティスになるのであれば、哲学プラクティスってなんなんだろう?みたいな問い、めっちゃ響きます。ぼくは、なぜか、この原稿が概念を検討しているから哲学的だなあ、と勝手に思って、その点をスルーしていたのですけど、「内容が哲学的かとは別に哲学プラクティス的かという検討があってもいい」という指摘はその通りだと思いました。

ぼくの中ではそこで止まってしまっていて、「何を載せるべきか」ということと「何を哲学プラクティス的とみなすか」ということはどれくらいどのように関係しているべきなんのでしょう。あるいは、これも「みんなで考えよう」と「みんな」は思えるでしょうか。ちょっと不安になりつつ、投げかけてみたい気持ち。

 

 

そのあと、近くのお店で懇親会がありました。この辺から「さろん」の雰囲気(?)をなんとなく掴めてきた気がする。それぞれどういう距離感なのかな、みたいなところが。

ぼくはぼくで、自分勝手に、某学会のこと(愚痴)とか、近況(愚痴)とか、なんとか、えらそうにいろいろ喋りました。なんかごめんなさいと思いつつ、聞いてくださってありがとうと思いつつ。

たまにでいいから「P4C系の人」とか「研究してる人」とか、そういうんじゃなくって集まろうよ、という趣旨、賛同します*5。まだぼくは自分のことで手一杯だけれど、できる範囲で行きたいし、お手伝いもしたいです。と言えるようになるには、もうちょっとちゃんとしろって感じがしたので、撤回しませんけど、小さくそういう自覚を記します。。

 

 

そこで宣伝のあった「8周年記念スペシャル企画 さろんRemix 「池上大捜査線」」というイベントにも参加しました。くじ引きでアイドルのロールプレイを引き当て、アイドルという役割を背負って街を歩き写真を撮るということをしました。別の役割を背負った別の参加者の方に隠し撮りされていたり、キューティクルをただ褒められたり、はい、楽しかったです。

何より、こんなよくわからないふらついた若い人を、特に自己紹介もなく、別段いろいろ聞き立てるでもなく、受け入れてくれた「さろん哲学」さんの懐の広さに頭が上がらないです。ぼく自身が強くこのことを感じるのは、まさにこのタイミングでこの場と出会ったからなのだろうけど、でも一歩家から外に出てみてよかった、といまは思っています。

ありがとうございました。

 

今日はここまで。

 

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追記:2018/9/26

『みんなで考えよう 創刊号』へのレス等のまとめ

 

①読んで考えてくださった記事

p4c-essay.hatenadiary.jp

 

②波止場てつがくカフェさんの記事

www.hatoba-de-dialogue.net

 

③執筆者の一人、古賀裕也さんはご自身のResearchMapでも記していただいている

researchmap.jp

 

 

*1:『みんなで考えよう 創刊号』は現在、下記ページで閲覧可能です。

http://philosophicalpractice.jp/journal/

*2:これまでいくつかの同人誌の原稿執筆や編集に関わってきましたが、こんなにストレートにこれはいいから読んでほしい!と思えてしまったのははじめてです。

*3:

http:// http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/15.pdf

*4:HP上だと「葦、天気をうかがう~「対話」と「圧力」の関係について~」というタイトルになってしまっていて、これは実は変更前のタイトルなので、変更依頼中です。

http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2018/09/11.pdf

*5:当たり前かもだけど、ぼくは案外自分が「何系の人」とみられているのかわかってないです。あー、ただ、まだそんなのなくてもいい気はするけど。