ゔぁみゅーだとらいあんぐる

雑記帳です。ほんとうにノリと勢いだけで何でも書きます。タイトルは作った翌日に先輩につけてもらいました。

お茶小140周年記念シンポにいったのでふがいない感想を記録する。

お茶の水女子大学附属小学校開校140周年記念シンポジウム(「「子どもから」の伝統が拓く明日の教育ー市民性の育成と新教科「てつがく」の挑戦 ー」)を聞いてきました。

本当にメモ程度というかモノローグのようなエントリ(いつもそうだろ!)になると思うけれど、シンポでのお話を、どのように理解して、どのように考えたか残しておこうと思います。

と思って書き始めて気づいたのだけれど、3人の登壇者のお話が終わった時点から、なんか自分一人で考え込んでいて、質疑とかほとんど聞いてなかったっぽいです。聞いてたらいつもメモ取ってるはずなんだけど…不適切な過ごし方をしたかもしれない。かなしい。反省。

 

*全体の流れ

 

シンポジウムでは、まず、お茶小実践の映像が流された。

低学年・中学年・高学年のサークル対話・「てつがく」の様子を、それぞれ5分程度だろうか、哲学対話している映像を字幕付きで見ることとなった。

その上で、3人の登壇者がそれぞれに話題提供し、相互に質問しあう時間、フロアからの質問に答える時間、みたいな流れ。

 

*小玉重夫先生のお話:「哲学教育と市民性教育の架橋」

それぞれの区別がどのように連関しているのか、改めてまとめようとすると理解しきれてない、と思うけど、いくつかの重要な理論的区別が示されたという印象だった。

・ある1つのテーマをめぐってなされる哲学対話の中で、その思考の対象になる価値が複数に及び、個々の児童・生徒がその価値を「自由に往還するイメージ」の授業が展開されることになる。

・そこで、教師は、「説明する」存在から「翻訳する」存在へ、「超越する」存在から「間に立つ」存在へと転換されていく。

・(Biesta2018)を引き合いに出しながら、)あるテーマをめぐる「不和(意見の違い・対立・認識のズレ)」を「顕在化させて前提を壊していく」ような教育をしている(いく)ことになるのではないか。

・そのとき、教師(ファシリテーター)は、哲学の専門家(アカデミズム)と哲学の素人(市民)をつなぐ、新しいタイプの哲学に関する専門職(高度なアマチュア?)になる*1

 

*思ったこと

小玉先生の示した哲学やファシリテーターの位置付けは、異なる認識を持った生徒同士を繋ぐ、専門家と市民を繋ぐというイメージだった。

たしかに、哲学対話の授業をしていて、「翻訳する」存在としてファシリテーターをしている感覚は、確かにある。というのも、生徒の発言から、異なる立場や認識をわかりやすく言葉として拾って、教室全体に向けて共有する、ということをしている、という実感があるからだろう。それによって、「不和」が顕在化する…なるほど。「不和」ってシンポの質疑の場でもそうだったのだろうけど、一般に印象されることと違うことも含めてさしていそう、な気がする。

でも、うーん。どうなんだろうな、ぼくは、ファシリ的に立場や認識を整理すること、をみんなができるようになったほうがいいんじゃないか、ということをずっとどこかで思っているような気がする。単に「不和」が顕在化するような教室空間を経験する(させる)ということにとどまらず、必要に応じて「不和」に向き合える存在に、個々の生徒がいつかなってくれればいいなあ、と思っている。んだなあ。

 

*神戸和佳子先生のお話:「なぜ、「てつがく」すると道徳性が育まれるのか?」

 

中学校・高校での哲学対話(哲学教育)の実践者の立場から

・現場で聞く哲学対話に関する懸念を整理し、

・「てつがく」で育まれる道徳性について、先に見た映像をもとに検討する。

みたいな流れの発表だったと思う。

 

・現場での懸念について

 自由に発言するのはいいけど、望ましくない発言・振る舞いにどう対処すべきか?

 教師が教え込まないのだとすると、児童・生徒の理解・成長に支障をきたすのでは?

 徳目を問い直すような場面は容易に想像できて、それだとそもそも道徳教育として矛盾しないか?

じゃあ、「てつがく」はどのように道徳性を育んでいるのか?

 

・映像で起こっていることから言えそうなこと*2

 自分の意見を諦めずにどうにか説明しよう/他者の意見を諦めずにどうにか理解しよう、ということができるための「忍耐」「信頼」が、お茶小の実践にはあるように見える。自分・他者・世界への、そのような倫理的態度*3が、ほんとうに「問いたい」、あるいはほんとうに「知りたい」ということを原点に可能になっているのではないか。

 

・提案

「伝えきれなかった」「理解しきれなかった」「わからなくなった」のような、できなかったことも、上のような倫理的態度への一歩だとするなら、まずその点をうまく評価することはできないだろうか。

 

*思ったこと

自分の意見を諦めずにどうにか説明しよう/他者の意見を諦めずにどうにか理解しよう、という共同体が可能になるための倫理的態度は、どこからくるのだろう、とやっぱり思ってしまう。ぼくの記憶では、神戸先生は「問いたい」「知りたい」を強調されていたように思う、のだけれど、一方でぼくの実感としては、「問いたい」「知りたい」ってあんまりフツーの欲望・意志ではない気がして…それがフツーじゃないかもしれないことを踏まえてない発表だった、と言っているわけではなく、いつもそのフツーじゃなさがどこまで伝わってくれるか、みたいな格闘している気になってるなあとふと思ったということ。

身近に「哲学対話なんて、ほんとうに学校でやれてるわけ?信じられない。だって、学校で周りに対して「何考えてるか知りたい」なんて全然思わなかったもの」という人がそれなりにいる自分としては、あるいは純粋に「訊きたい」「知りたい」みたいな気持ちをどこかでかなり抑圧して教室にいた自分としては、「問いたい」「知りたい」を駆動するものがなんなのか考えてみたい気持ちが強い、のだなあ*4

あるいは、「問いたい」「知りたい」がすでに「忍耐」によって可能になる、ということなんだろうか。

 

*奈須正裕先生のお話:「今、日本の教育課程に「てつがく」を位置付ける意味」

 

こんどの指導要領にも深く関わっていらっしゃる奈須先生のお話。初めて話聞くからだろうけど本命登場って感じが自分の中ではあった。ぼくの座席の角度からはなんか石破さんに似てるなと見えた(総裁選当日だったからかな)。

・学校の教育課程は、基本的には、国語・算数…のような「学科課程」と生活・総合・道徳…のような「生活課程」の二つから成る

→「学科課程」に「てつがく」を位置付けることは現実的ではないだろう

・「生活課程」に位置付ける場合、「道徳」や「総合」と同格の一つとして、「道徳」の一部・代替として、「総合」の一部・代替として、という三つのケースが考えうる。あるいは、独立したメタ学習を担う位置付け(バカロレアにおけるTOKのような)もありえる

・「てつがく」で生じていることは、主に①「問うこと」を学ぶことと②「教科」を学ぶ意味を問い、深めること③自分の考えを表現し、表現をもとに考えること④AL的な柔軟な学習観の形成、の4つだ

・具体的な個々の生活の中から「学科課程」で通用するような抽象的な事柄を抽出・吟味する、ということが学校に求められるとすると、「てつがく」の可能性は無視できない*5

 

*思ったこと

奈須先生の示した位置付けは、各教科(学問)の前提を明らかにして問い直すことで、学科課程(科学)と生活課程(生活)をつなぐもの、あるいは、学習者にとってのメタ学習領域を担うもの、としての哲学(的思考)だった、と思う。いくつかの可能性が示されただけで、これがよい!という立場は示されていなかったかもしれない。

教員としてのぼくは、メタ学習領域としての哲学対話みたいな部分への関心が強すぎるな、と反省する機会になった。ある程度慣れてきたら、自分たちで対話できるようになってほしいし、そのために、対話を振り返る、学習を振り返る、どうやったらもっとうまく参加できるのか、対話できるのか、考える、 ということをしていってほしい、と強く思っている。たぶん、自分が哲学対話に惹かれた側面なんだろうと思う。「哲学」を修めていないということも関係しているだろう。「哲学をどのように社会/教育で活かせるか」というテーマ*6は、仕事上関心はあるけど、ぼくの問いではない。むしろ、この活動の形式がどのような教育/学習を促すのか、ということにこそ、実践的な関心があるのだろうと思う。そんな反省をした、なあ。

ところで、学科課程(科学)と生活課程(生活)をつなぐものとしての哲学の授業ってどのように可能なんだろうか。極端に言えば、大学の哲学入門みたいなことを学校でやればいいって話?なのか?それとも、哲学対話してればいいって話?でもなくない?

 

 

書こうとすればするほど混乱してきた。

人と人の間に立つ、とか、抽象的な知識と具体的な生活をつなぐ、とか、「忍耐」「信頼」を(自然と)身につける、とか、どこまで学校に求めるべきなのだろう。そして、どこまでがこれまでも学校でやられてきたことで、どこからが「てつがく」の位置付けによって強調したいことなのだろう。

ぼくは、「てつがく」の可能性を議論することと矛盾しない形で、「てつがく」(もっというと、「学校の中の哲学」)に背負わせている事柄の多さにも向き合う必要があるように思ったのでした。

*1:少なくとも最後の点は哲学プラクティス学会のシンポでも言及があったこと。下記リンクにてそのときの資料が公開されています。

https://researchmap.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=multidatabase_view_main_detail&content_id=22441&multidatabase_id=7080&block_id=1779165#_1779165

*2:冒頭で見た映像をもとに検討なさっていたので、ちゃんとわかるようにするには、映像と、映像に対するコメントも拾わないといけないんだけど、流石に無理そうだし、結論部的なところまで飛びます。。

*3:なるほど、まさにここが倫理的なのか、とそのときは思った

*4:この点は哲プラ学会のクリシンワークショップでも議論になった点であった、と理解しています。

*5:このへん記憶の自信がない

*6:ぼくには「なんのために”哲学することに意義がある”と言えば、その言葉が説得的に聞こえるんだろうか」みたいな問いに、多くの場合聞こえている